最初、劇場で観たときの感想は「怖かった」だ。どんな映画かと友達に問われた時に、「ホラーだよ。まぎれもないホラー」。
なんでそのとき、あれほど僕は恐怖したのか? 学校でライフルを乱射してひとを殺す映画なんてたくさんある。僕も、高校時代、8ミリで撮った。女の子にもてないオタクな高校生なら、誰でも一度は見る幻想風景だ。あまりにもありきたりだ。なぜそんなに怖かったのか。
あとになって映画についての監督のインタビューやなどを読んでいて、その恐怖の正体がはっきりしてきた。その正体が、とてつもない。一体、なんてことをしたんだ、ガスヴァンサントさん。そりゃ、パルムドールだよ、
まず映画の画面というのは、悲しいぐらいに無駄がない。もし画面に電話が映ったら、それはかならず鳴るか、それともその電話を鳴るのを待つ誰かが映る。ただなんの意味もなく電話が画面に映ることはない。
当たり前である。限りある予算である。電話を持ってきて、照明を当てて、カメラを回すのである。無駄などあるわけがない。
ところが、この映画はそれをやってしまったのだ。サント監督が言っている。
「この映画では普段、カットしてしまうようなシーン、ここで演技は終わりかなというところも、続けて撮って、そのシーンをあえて入れた。」
本来ならカットしてしまうシーンをいれるって、そりゃメチャクチャだ。ところがそれには理由は、ある。
「リアルにしたいから」
リアルといっても、映画表現におけるリアリズムではない。
まさしくそのままである。
高校生たちのそのままを撮る。それはわかる。その、そのままの延長上に、高校生ふたりのライフルの購入、試射、そして虐殺があるのだ。それも高校生のそのままなのだ。つまり図書館で本を借りたり、クラブしたり、ああいい天気だなあ・・と空を見るというシーンと、銃で友達を殺すのが、まるっきり同じレベルで描いているのだ。
こんなもん、全然、異常なことじゃないよ・・と。
なぜ、そんな表現をしたのか? そこにサント監督がタイトルに込めたテーマがある。「エレファント」その言葉の意味の成り立ちは、ホームページなどを読んで欲しいが、意味は「あまりにも大きすぎてわからない」。
一本の映画を見せて、突きつける結論が「わからない」である。普通なら見たひとは、逆上する。しかしみんな恐怖した。
カンヌの審査員も恐怖した。
当たり前だ。彼らは映画のプロだ。映画がどういうものか、知り尽くしている。だからこんな映画を撮ったことのすごさをわかっている。何億という予算を使って、ただリアルな高校生を撮り、その延長上に虐殺を撮り、「わからない」終わる。
それが見事にリアルになっているのだ。アメリカの高校生にとってライフルでの虐殺は、リアルなのだ。どうしてそんなふうになってしまったのか・・サント監督はそれに対して「わからない」と結論ずけて終わる。これを恐怖といわずしてなんという
ここまでの文章は、以前に、別の場所に書いた映画評の再録、改訂です。
なぜ、これを載せたかといえば、例のアキバの通り魔事件の、一連の報道を観たからです。
この映画は、コロンバイン高校のライフル乱射事件を、題材にした映画です。
でもアキバ通り魔事件に対して、僕の感想はありません。
なぜなら、「わからない」からです。相変わらずの通り魔の事件に対しても、世間に起こっている残忍な事件に対しても、僕はわからない。
きっと誰にもわからない。しかし報道は相変わらずなにかをわかろうとしている。
なにもわからないくせに、意味のないコメントを繰り返している。
この映画を作ったガスヴァンサント監督のように、勇気を持って「わからない」というひとはいないのだろうか。
それとも、みんなあれをわかっているのでしようか?