昨日板長のツアーに参加しましたがまだ訪れたいスポットもあったので竹ネイチャーアカデミーのツアーに午後から飛び入り参加させていただき大村地区からスタートです。


まるで田舎の警察の駐在所のようです。


当時でいえば生活廃棄物になるのでしょうがビールの会社名とか薬瓶は当時のものですからかなりレア品だと思います。


弾薬庫になります。


屋根は朽ちて無くなっていますがまわりの石垣はかなりしっかりした造りです。


ガジュマルは小笠原外来種になりますが丈夫なのと建物のカモフラージュにはもってこいなのであえて植えていたそうです。


まさに当時を知る物言わぬ生き証人です。


油庫なんて初めて聞きました。重油らしいけどあまり純度はよくなかったそうです。


火薬庫同様かなり頑丈な建物です。


重油とか入れていた一斗缶のようにもみえます。


貯水槽です。


かつての砲台跡ですが英語のカノンが禁止なので加農砲といっていたそうです。


カノン砲が置かれていた弾薬庫になります。


シェルターのような分厚いコンクリート部屋です。


ただ空っぽなのであまり弾薬が置かれていたイメージはほぼ感じられませんでした。


境浦に移動してきました。沖には攻撃を受け座礁した濱江丸が眠っております。満州から日本まで石炭を積んでいた貨物船で数十隻が米軍の爆撃機や潜水艦による攻撃でかなり沈みました。この濱江丸もこの地点より遥かに以前に攻撃を受けここまで流れ着いたといわれております。


これは以前別日にシュノーケルで浜を歩いて見つけた戦跡です。


墜落したヘルダイバーのエンジンです。


この崖の上の位置が分からないので今回ツアーに参加したのです。


ガイドさんの後についてとある崖の入り口から茂みを下っていきます。遠くにまるでハリコかプラモデルのような物体が見えてきます。


これが米軍急降下爆撃機ヘルライダーです。


この辺りの残骸は左翼部分です。


日本軍の平射砲なり高角砲で撃墜されたのかもしれません。


80年経過していても生々しいです。






米軍側のご遺族?が置かれたのでしょうか。




左翼の車輪部分です。


当時からめり込んでいたのか長い年月で堆積物によって埋まってしまったのかはわかりません。


サビや塩害の劣化は見受けられます。




この辺の材質はアルミニウムだそうです。







この辺りが中央のフレームらしいです。




そして右翼部分です。


80年経過して残っているのは凄いことです。


雑木林が雨風から多少守ってくれたのでしょうか。


いまや物言わぬ語り部です。


いつまで残っているのかはわかりませんが心の中で合掌しました。




こちらで生き絶えた米兵も含め戦争って誰のための得になるのでしょうね・・・。


移動して洲崎飛行場跡地にやって来ました。


小港海岸やコペペ海岸には比較的近いながら一転荒々しい磯のような海岸線です。


こちらの飯盛山を削って必死に整地したそうです。それでも石でボコボコです。


米軍戦闘機に対抗すべく零戦(ゼロセン)いわゆる零式戦闘機(レイシキ)もテスト飛行で飛び立ったそうです。


平地はこの辺りしかなく短い滑走路に複雑な風向き等で本格的に使われることはありませんでした。


ガイドさんの知り合いが農地開墾中に見つけた戦争遺構品になります。まだ爆弾とか含めて出てくる可能性も示唆していましたね・・・。


正式名称は海軍小港平射砲台跡というスポットまでやって来ました。


この付近で残っているのは現在のこの一門だけです。


台座やスプリングが格納されていた部分も残されています。


海を見てみます。










先程入ってきた入口です。


砲身の口径を覗いてみます。


物言わぬ主は今もなお大海原を見つめております。


砲台とは反対方面つまり入口付近に立つと美しい小港海岸が見えます。


苦労して往復したトレッキング道を挟んで・・・


コペペ海岸が見えます。ガイドさんも仰ってましたがこの美しい海も当時はいつ攻めて来るか恐怖でしかなかったのかもしれませんね。2日間戦跡にスポットを当ててあらためて平和とは当たり前にあることではなく創り上げていくことなんだなぁと実感しました。