伝わる | 理学療法士 ささやんのブログ

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~人間を本質的に捉え、治療できるセラピストになるために~

こんにちは。

 

あまりマジメに更新してないブログですが・・・

リアル臨床の日には多くの人と会い、話を聞いたり、聞いてもらったりしたので多くの刺激があった。

 

その刺激から受けた自分の反応であったり感じたことをブログに書き残しておこうと思う。

 

 

2日間で多くの人の話を聞いた。

それは発表という枠だけでなく、参加した時にペアの人と話したり、懇親会でも初めて会う人と話したりと様々な場面で。

 

そこで感じたこと。

それは「言葉は意味で受け取ってはいけない」ということ。

 

 

 

よく聞く言葉で言えば「何を言うかではなく、誰が言うか」というのがそれなのだろう。これは決して「偉い人が言っていることが重要」ということではない。

その人自身の言葉なのかが重要である。

 

 

 

簡単な例え話でいうならば、プロ野球選手が言う「プロの世界は厳しいよ」という言葉と、プロ野球に詳しい人がいう「プロの世界は厳しいよ」は全く言葉の重みが違うということ。

 

「プロの世界は厳しい」という情報だけを知りたいのであれば、それはどちらの言葉も大差ないのだろう。

 

情報ばかりを集めていても楽しさを感じることはない。もちろん自分の中の疑問に対して調べ物をしたりする上で、情報を知るのは必要なのだけど、それ自体に楽しさはない。

 

EBMが推奨されている現代医療において、論文を検索して情報を適切に選択する能力は、セラピストに求められる能力である。

 

 

だけど、情報を得ることに楽しさはない。

情報はあくまでも情報なのである。臨床でエビデンスに基づくためなら、それはそれである。

 

 

しかし他者との会話になってくると、そのつまらなさは違和感となり、関わりを悪化させることにつながりかねない。

 

 

 

 

人間としての関わるのだから、言葉はその人の言葉でなければ伝わらないのである。

 

「相手」に「私」が伝える。

「私」が「相手」に伝わる。

 

伝える側と受ける側。この両者が成立して、初めてそこに感動が生まれたり心に響く感覚が生じるのではないだろうか。

 

 

 

 

演題発表においては発表の練習や前準備も大切なのだけど、一番その人らしさが出るのは質疑応答なのではないかと今回気付いた。それは事前に準備された回答ではないからこそ、その人が現れやすい瞬間なのだ。

 

質疑応答などでは時々、回答が質問の意図と異なり、すり変わる場面を見かける。これは全く相手の意図を汲み取れていない、つまり関わっていないからこその、無意味な言葉の空発であり、それがその人の在り方なのである。

 

 

 

自分の言葉とは、自分の在り方である。

伝達講習ほど伝わらない勉強会はないんじゃないかと思うけど、そんな勉強会も蔓延している最近のこの業界。

 

 

 

日頃の自分に対する問いの深さ、五感への配慮、当たり前に対するツッコミ。

 

そんなものが自分の在り方を成長させてくれるのだと思う。

 

 

知識や情報を得ることも必要なのかもしれないけれど、

 

その前提として、相手と関われる人間であること。

 

 

 

そんな自分をもっと作っていきたい。