早稲田大学キャンパス2号館にある

會津八一記念博物館を訪ねて

新潟と早稲田大学を結ぶ、教育者でもありました。

 

同郷新潟の孤高で多方面で天才肌の偉人と覚えております。

なんせ、お顔が気難しそうで、怖そう(これは失礼ですね)

話しでは、生涯独身だったと聞いておりました。が。。

 

 

會津八一(あいづやいち)とは?

新潟市屈指の料亭 會津屋の次男として、新潟市古町通5番町で誕生し8月1日に生まれたことから、八一(やいち)と名付けられました。1881年(明治14年)

 

まことに語呂のよい数字の組み合わせからなっています。

1881年8月1日とは。。すべてが1と8とは摩訶不思議(笑)
書家、歌人、美術史研究など、幅広い活動で知られています。       新潟市會津八一記念館より参照 ↓

 

 

早稲田大学サイトから

 

 

特集展示 観佛三昧を鑑賞する

 

 

 

 

會津八一書

 

二階には、企画展が展示されており

ニューヨークを舞台に日本人アーティストの描いた作品。

点と線の用い方が、シンプルにカッコいいと思いました。

こちらは写真はNGでした。

 

 

 

荻原守衛(碌山)の絶作です。女ブロンズ像

中村サロンとゆかりのあった、會津八一ゆえでしょうか?

 

 

中村屋との関係

早稲田中学で、中村屋の長男を教えた八一は落第させた。

潔く落第させたとお礼を言ったといういきさつがあります。

中村屋の練羊羹の包装紙の書は、

八一が書かれています。

 

 

横山大寒と下村観山合作「明暗」

2階から眺められました。

 

 

一階から眺めると。。

 

2階ロビーに飾ってあった絵画

 

 

教育者、東洋美術史学者として

1906(明治39)年東京専門学校卒業後、新潟の有恒学舎の教師として赴任したのが教育者としての始まりでした。

 

八一はこの地に4年赴任し、1910(明治43)年には坪内の推薦で早稲田中学の英語教師となります。超人的な授業時間数での学生との接触が教師という職業に八一をひきつけ、1914(大正3)年には「秋艸堂学規」という八一の人生訓を送ります。

 

會津八一は、その後も自ら定めた「学規」を座右の銘とし、弟子たちにも書き与えていました。 

 


1命を大切にし、 2 反省を怠らず、 3 学問芸術で人格を磨き、 4 毎日着実に前進しようという生活の指針は、
どんな立場の人たちにも大切な内容です。

今でも、身が引き締まります。

 

  • 一.ふかくこの生を愛すべし
  • 一.かへりみて己を知るべし
  • 一.学芸を以て性を養ふべし
  • 一.日々新面目あるべし

 

 

おまけ

面白いコラムを見つけました。

還暦記者の、新潟ほろ酔いコラム(⋈◍>◡<◍)。✧♡

 

新潟のうまい酒と肴(さかな)を求めてふら~り、ふらり。酒席で人生の多くを学んだ新潟日報社の特別論説編集委員が、酒や肴、酒にまつわる出会いをつづるコラムです。

にゃんこの「おかみ」もご一緒に!

 

會津八一は、古都奈良を「酷愛」していた。奈良県にも新潟と同様、里芋を使ったのっぺがある。

 

 
 

農林省サイト うちの郷土料理

新潟の定番 のっぺ

わが家ののっぺは、いくらがあったら乗せますが。。

 

 

奈良のっぺ 精進料理

油揚げが入っているのですね。