今回は桃太郎をテーマに、そのお伽話の背景を古代史から掘り下げました。
吉備の温羅伝説は吉備出身の斑鳩若子さんに語って頂きました。
地元の郷土史を大阪、上町台地、空堀でお語りになられて、さぞ、感無量であったでしょう。
吉備は5世紀辺りまで、国内屈指の王国であったようです。
その根拠は、鉄の産業と瀬戸内海の航海権。
物流ロジスティックの権益は現代の産業でも企業の価値を高めます。
しかし、当時のヤマト王権からすると、目障りな存在だったのではないでしょうか?
おそらく、雄略天皇のころ、吉備に軍事介入した記述が記紀に記されています。
それが桃太郎伝説とどういった変遷を経て今日に伝えられているかは知るよしもありませんが、実際吉備には全国でもベスト5に入る巨大な前方後円墳が残されています。
しかし宮内庁管轄に指定されず、それだけの規模にも関わらず、被葬者が不明です。
つまり、正史からは隠蔽されているようです。
しかし、吉備の風土は恵まれており、それが吉備のおおらかなお国柄になったのでしょうか。
温羅伝説には鬼退治による少々乱暴な場面も演出されますが、地元の方々にはおおらかに受け継がれて、吉備津彦神社への信仰も大切にされているようです。
さて、今回の座談会で圧巻だと感じたのは、その温羅伝説。
百済からの王子、温羅。
何故、百済の王子なんでしょう??
きっと瀬戸内海経由で朝鮮半島と交流があったのかな?
実は5世紀までは瀬戸内海の航海はまだまだ課題が多く、一筋縄ではいかなかったようです。
古代史の謎は「海路」で解ける (PHP新書)/長野 正孝

最近本屋さんでやたら目につくので買って読みましたこちらの本⇧
著者のカヌーの経験から、実際の古代史の頃、航海技術は如何ほどだったのかを考察されていまして、おそらく今年の古代史読み物大賞(そんなんあるんか?)でも受賞するんちゃうかなというくらい秀逸な内容でした。
著者によると、瀬戸内海の海流は非常に不安定で、また海底も凸凹で渡航するには海岸伝いに行かなければ直ぐに難破したり座礁、もしくは瀬戸内海の海の民によって渡航が憚れるようで、神話にある神武東征なんて、記紀を鵜呑みにすれば紀元前7世紀の頃にそれ程の航海技術はあり得なかったと説かれています。
10年程前、大阪が古代船を復元して瀬戸内海で航海実験をしたらしですが、いまの技術でも航海は失敗したと報道されたらしいです。
先日の座談会の後半で参加者から百済の温羅王子がその後どうなったかの記載が無いのが不自然との質問がありました。
歴史は勝者が記すとは言え、それでは安直です。
私は上記の本を読んだ直後だったので、古代史のおける海路を踏まえてお答えさせていただきました。
つまり、当時は、瀬戸内海航路より日本海側の航路の方が栄えていたのではないかと察せられます。
例えば、出雲そして丹後、舞鶴、若狭、越。
更に日本海側の地理、海流、偏西風、当時の東アジア情勢を鑑みると、新羅と百済、そして任那、更に高句麗、そして中国とのパワーバランスの影響があったはずで、日本海側の豪族、海洋民族はおそらく新羅との交易で栄えたのではないでしょうか?
そう考えると、瀬戸内の吉備の全盛期の背景の裏には日本海側の勢力との軋轢もあったのでは?
故に、5世紀以降辺りから帆船の技術の向上とともに瀬戸内海の航路が発展し、朝鮮半島の西側、百済、高句麗への航路は繋がり、吉備は新羅を従えた日本海側勢力に対抗して、百済との同盟関係をチラつかせたのが、この温羅伝説だったのではないかと思いました。
その後のヤマト政権にとってもそのほうが都合が良く、7世紀の倭国から日本へと変遷する伏線にもなるのではと考えます。
こういった視線を与えていただいた上記の著書に感謝したいですね。
更に掘ると、瀬戸内海航路の主張を神武、神功の神話にチラつかせていますが、実際は雄略から継体にかけての一部軍事介入はあっただろうけど、商業的な同盟を山陽地方の港湾を整備、管理することによって、日本海側に負けないマーケットをヤマトが手に入れた変遷が5世紀から6世紀だったのではないかと察します。
海の道は実に面白くロマン溢れます。
まだまだ調べ足りません。
いつか瀬戸内海をフェリーで航海したいです。
そんなきっかけをくれた桃太郎伝説にありがとう!!
吉備王国フォーエヴァー!!
さて、次回は5月21日木曜日@空堀FATE
古代から少しそれますが「空海」をテーマにやります!
よろしくお願いします!