キャプテンは、僕の中に、いる。 | 空堀ホイホイ

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キャプテン 1 (集英社文庫―コミック版)/ちば あきお



ちばてつやさんがツイッターを始められたようだ。

早速フォローワーが急増殖している。

ちばてつやさんの弟はちばあきおさん。

僕的には、ちばあきお「キャプテン」が我が人生、最高のバイブルである。

青春野球マンガといえば、「タッチ」や「ドカベン」等、名作が多いが、「キャプテン」は特別に思い入れが深い。

随分以前に、「ぴあ」の特集で、野球漫画でオールスターチームを作るなら、的な特集企画があって、そのオールスターチームのキャプテンはこの「キャプテン」の主人公「谷口タカオ」であった。

しかも、4番サードである。

この企画をした人はなかなか分かってるなと、感心した覚えがある。

俺も野球やるなら谷口くんみたいな人と一緒にプレイがしてみたい、否、俺も谷口くんのやうにありたい。

社会に出て、凹んだことがあるたびに「キャプテン」の1巻を嗚咽しながら読み込んだもんだ。

人知れず神社で練習するシーン。

その姿を五十嵐がこっそり見て「これなんだな、キャプテンがみんなを引っ張る力は」は名場面。

数え上げたらキリがないが、少年漫画の絶対的最高峰である。

はっきり言って他の野球漫画と画する辺りは何処か?

それは「キャプテン」には練習と試合のシーンしか無いのだ。

青春といえばやはり「恋」が大きなテーマだろう。

「タッチ」は恋愛が物語りの軸にあるから作品に華があった。

しかし、「キャプテン」には恋愛シーンは、皆無、である。

にも関わらず、谷口君から丸井、そして五十嵐、近藤と、一貫して練習と試合のシーン、もしくは部員との軋轢や個人の葛藤を軸に最終回、そして続編の「プレイボール」まで野球のみをブレずに描き続けているだけなのに、多くの読者に夢と希望、そして努力することの尊さを教えられ、実践したくなるのである。

それこそが青春であり、人生であると、教わったのである。

しかも、「キャプテン」も「プレイボール」も、敗北で、終わっているのである。

更に、作者のちばあきお氏は、自害。

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話は逸れるが、僕は太宰治の作品で一番好きなのは「走れメロス」である。

そう、ちばあきおにとって「キャプテン」は太宰治の「走れメロス」だったんじゃないだろうか。

これは音楽にも言えることだが、作品と作者の人生は混同してはならない。

寧ろ、作品は独立したものであり、読者やリスナー、みんなのものだ。

しかし、深読みは、させられる。

「キャプテン」の中で描かれる執拗な練習シーン。

凡人が如何に努力によって、天才に立ち向かえるのか。

これらは、ちばあきおの兄が巨匠、ちばてつやであったこととは無関係では無かっただろう。

ちばあきおは「キャプテン」を執筆することで、己と戦っていたはずだ。

谷口タカオも丸井も五十嵐も近藤も、登場人物は、みんな、ちばあきおの分身なのだ。そして我々の分身でもあったのだ。

だから、嘘が無い、美しくも儚く切ない、本物の青春野球マンガ足り得たのだ。

作者の切実な願いや思いが、伝わるから、未だに名作なのだ。

「タッチ」のように本編最終回後のイマジネーションを奪われることは、無いのだ。

だから、読者達は、「キャプテン」完読後、それぞれの「キャプテン」を演じる、自らの人生に向かって行けるのだ。



キャプテンは、僕の中に、いる。