ズバリ言ううわよ
天武天皇の隠された
正体とは
それは
蘇我入鹿の子であつた
まず、日本書記の編纂を命じたのは天武ではある。
しかし、日本書紀の編纂が完了したのは天武が崩御してからである。
日本書記の編纂に尽力を尽くされたのは、天武の皇后、持統天皇である。
そして、持統は天智の娘である。
更に、天武と持統は仲睦まじい夫婦であったと伝えられているが、実は天武は持統を愛していなかったと推察される。
故に、持統と天武の日本書記に対する思惑は違っていた。
恐らく、天武が生きて日本書記を編纂していたなら、自らの出生をもっと明示していたはずだろうが、日本書紀には天武の前半生の記録が曖昧である。
じゃあ、何故持統は天武の前半生を有耶無耶にしなければならなかったのか。
それは、天武には蘇我氏の血が色濃く受け継がれているからに他ならない。
更に、これは様々な歴史家が指摘しているが、どうやら天武は天智より年上のようだ。
そして、関氏は斎明天皇を母としながら、異父兄弟である双方の血を追求していく。
この辺りはややこしいので関氏の著書に丸投げします。
ざっくり言うと、斎明天皇は、若かりし頃、蘇我入鹿と結ばれ、漢皇子を産んでいた。
その子こそが、天武であった。
この事実を日本書紀は必死になって隠蔽する必要があった。
何故ならば斉明は九州王朝(親百済)の女。
蘇我入鹿とは禁断の恋。
乙巳の変の絵図の不自然さも関氏は指摘する。
ウィキからお借りしました。
この絵の屏風の後ろの女性は斉明である。
斉明はこの乙巳の変で狼狽えた。
天智の娘として、持統はこれらの事実を隠蔽することによって、何としても九州王朝の血を万世一系としなければ、朝廷の威厳が保てなかった。
本来は、天智と天武の間で取り決められたのは、男系を九州王朝から、女系を出雲王朝から輩出し、結婚させる。
恐らく乙巳の変以降、二朝並立であり、混乱した情況であったのだろう。
しかし、天智が白村江で敗戦して以降、天智の行き過ぎた親百済政策に反発する蘇我氏出雲系の豪族達を懐柔する為に政治の要所に蘇我氏を取り組まなければならなかった。
しかし天智は蘇我氏に強硬に出た。
大海人皇子(天武)はそれに反発し、吉野に出家し、兵を集め、壬申の乱に至った。
天武は壬申の乱に勝利し、飛鳥浄御原宮で即位したが、やがて崩御する。
そこにつけ込んだのは、藤原氏である。
持統以降、女系は藤原氏から輩出され出す。
日本書紀、古事記には藤原氏の意向が強く反映されていると言ってもいい。
そして、関裕二氏の飛鳥三部作は終篇「謀略の女帝 持統天皇」へと向かう。
禁断の愛が乱世を呼んだ飛鳥の刹那。
当時は血で血を洗う殺伐とした時代だったろうが、1300年も経てば、妙なロマンになってしまう人の世の刹那。
また飛鳥を訪れよう。