文春の不倫記事で思うこと | 笹井恵里子のブログ

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執筆は苦手、でも企画立案と取材が大好きなジャーナリストです。

 週刊文春が好きで、2016年から毎号購読しています。でも最近の不倫報道を悲しい気持ちで読んでいます。

 文春はスクープを放つ時、事実か否かを徹底的に調べあげ、それが事実だった時には「この人には、こんな一面があるんです」ということを伝える。それを大義名分としています。でも、今のやり方って本当に「事実だけ」を伝える。それも一方的な側面ばかりで、本人の心情とか、まったく深掘りしない。タイトル(「広末涼子 W不倫 交換日記」)からしてそう。かつてはもっと誌面の底辺に明るさや温かさがあって、シリアスな記事でも笑ってしまう瞬間があったけど、今は意地悪さだけを感じるから、読後感が虚しい。

 だいたい広末さんの新たな一面を報道するなら、ちゃんとパートナーの方の「新たな側面」も報道しないと、フェアじゃないと感じます。

 

 またヤフコメで、怒っている?人たちのコメントが恐ろしい。

 自分のパートナーが不倫されたわけでもないのに、なんでこんなに人を叩けるんだろう。評価できるんだろう。

 私が一番気になったのは「子どもがかわいそう」という言葉です。男性(父親)が不倫したら言われないのに……気分が悪いなあと思っていたら、ライターの亀山早苗さんがとっても温かい眼差しで記事を書かれていました。

 そう、今ほしいのはこんな視点! さすが亀山さん!

広末涼子、恋多き女優の不倫純愛の本気が尊い。「子どもがかわいそう」はよけいなお世話

 

 私も23歳で一人目を出産したので、「母親なのに」「仕事の代わりはいても母親の代わりはいない」「子どものために」などの言葉を長い間、いろんな方面から散々言われてきました。子どもを産んだら、女性は自分の人生を諦めなくてはいけないんです。「母親なんだから」という理由ですべての行動を制限されます。それに対して不平を述べれば「産むと選択したのはあなたでしょう」と言われる。ちょっとでも子どもを置いて、仕事をがんばって残業しただけで「子どもがかわいそう」と言われる。さすがに今はそんな企業はないかもしれませんが、少なくとも私が20代の頃はそれは当たり前の世界でした。

 まして広末さんは10代から仕事をされているので、これまで奔放に生きているようで実は周囲のためだけに生きる人生だったんだろうなと思います。社会人(俳優)としての役割、母親としての役割、妻としての役割ーー一番上のお子さんが成人し、やっと肩の荷がおりて、役割業を全部おろした時間が不倫だったのかもしれません(あくまで想像)。

 

 不倫、暴力、借金などは、わかりやすい「悪」ですよね。だからそれをされたから、「二人の関係は終わった」と言われれば、第三者から賛同を得られやすい。

 でも、恋愛が始まる時と終わる時は、そんなわかりやすい理由だけではないと私は思います。

 

 2019年2月14日号の週刊文春で「熟年夫婦こそバレンタイン・チョコ」という記事を私は書きました。

 いま読み返したらなかなか面白かったのですが笑、この記事の中で欧州に30年在住した栗崎由子さんという方に取材しているんです。栗崎さんはこうコメントしてくれています。

「欧州では『愛情の終わりが婚姻の終わり』というぐらいカップルの間には日本人にはない緊張感があります。ですから40年50年一緒に暮らしたご夫婦でも、バレンタインに男性が女性をディナーに招待し、『私たち幸せだね』『そうだね』と愛を確かめ合うんです」

 

 日本では良い父親=良い夫というイメージがありますが、そうではないですよね。父親になれる人、ではなく、好きな人と結婚するのではないでしょうか。だから「子どものために(我慢する)」という言葉は、逆転現象のように感じてしまう。

 さらにものすごく曲がった見方をすれば、不倫をしても、母親や妻業を続けようとした、その広末さんの努力は「子どものために頑張ったこと」と、認められないんでしょうか。

 歪でも、何とかバランスがとれていた家族の形をあえて壊すことが、文春の役割なのかなと今回とても寂しく感じました。

(下記はすべて文春で、好きだった号です)