「二ノ丸跡」から登山道へ戻り、先へ進む。
先ずは、直線の階段から。
階段を登り始めて直ぐ、左側に「曲輪跡」の様な削平地がある。
縄張図には無いが、場所的に「曲輪跡」があっても不思議ではない。
さて、如何だろうか?
この案内板に勇気付けられる。(笑)
登山道からの景色。
他の場所は、木々に囲まれ見辛いので、数少ないビュースポット。
登っていくと、斜面の所々に「石垣跡」が見えてくる。
又、明らかに人工的に削られた地形が現れるようになる。
「本丸跡」の西側下の削平地。
狭いが、「曲輪跡」の様に見える。
「切岸」は高い。
「切岸」(「本丸跡」)を廻り込むように進む。
崩れた「石垣跡」の横を通っていくと、
「堀切跡」。
ここには、案内板が設置してある。
「堀切跡」の両側は、土止めのためか「石垣」が組んであった様だ。
上から見た感じ。
先ずは、「本丸跡」の確認へ向かうため、
先程の斜面をジグザグと登っていく。
最初に目に飛び込んでくるのが、「本丸跡」の北西側「虎口跡」。
「石垣跡」が確認できる。
ここは仮保存状態の様で、土嚢で取り敢えず補強がしてある。
そして、地面に大きく平らな石が数個埋まっている。
「本丸跡」内部へ。
下草が生えており、地表の様子は分からない。
北側端に三角点を発見。
奥に薄らと海が見える。
■国吉城址概略■(解説板)
美浜町指定史跡国吉城址は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中守勝久によって、弘治2年(1556)に築かれた中世の山城跡である。通称<城山>の最高所(標高197.3m)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の削平地(曲輪)が連続し、その先端に丹後街道が通る椿峠があった。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。実際に、永禄6年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせ、その活躍は『若州三潟郡国吉籠城記』などの軍記物にまとめられた。元亀元年(1570)、越前攻めのために木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わる。
その後、天正11年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興した。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永11年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置いた。以降、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町家や寺社が現存している。
■本丸跡■(解説板)
ここは、国吉城の本丸跡で、大正時代に立てられた城址碑がある。東西約70m、南北約30m、南隅に土塁が残るほか、北西側と東側に出入口(虎口)がある。虎口付近や斜面の周囲には大量の石が散らばり、所々に積まれた痕跡が残ることから、往時は周囲に石垣を廻らしていたと思われる。また、城山の所々に板碑や墓石が散乱しており、城址碑の脇に一部が集められている。これらは国吉籠城戦の際、粟屋勢が周辺から集め、攻め登る朝倉勢に向かって投げ落としたものと伝わる。
本丸からの展望は大変良く、東は山東の諸集落と、若越国境であった三国山、野坂岳、旗護山と敦賀半島が一望できる。北は若狭湾と天王山、西から南にかけて佐柿の町並みと新庄を除く美浜町のほぼ全域、遠く三方五湖や三方町の山々を見ることができ、当時から四方への展望が開けた立地であったことが判る。
平成15年3月
美浜町教育委員会
その付近にあった石仏群。
「本丸跡」南隅にある「土塁跡」。
「櫓台」という説もあるが、自分には「土塁跡」の方がシックリくる。
「土塁跡」下の尾根伝いに御嶽山へ行けるようだ。
縄張図によると、この「土塁跡」の先にも「堀切跡」があるらしいので、
確認の為斜面を降る。
そして、突然落ちる。
余所見をしていたり、案内板を見落とすと、少々危険かも。
「堀切跡」を側面から。
幅が広いため、上手く撮れない。(汗)
「切岸」。
この3条の「堀切跡」の先にも、道は続くが、
「本丸跡」南東の「土塁跡」まで戻ると、足元にロープ状のものが。
良く見ると黄色い頭のヘビだった。(汗)
危ない危ない。
そのまま「本丸跡」の北東側へ行くと、そこは発掘調査途中の為か、
ブルーシートで覆われていた。
北東下へ降りてみると、削平地があった。
「曲輪跡」だろう。
「切岸」も高い。
続く。














































