訪問日 平成28年 5月 4日
今回訪問したのは、美濃市殿町1439にある「安住山清秦寺」。
宗派は、臨済宗妙心寺派で、本尊は釈迦如来。
小倉山より250m程西の小山上に位置し、
「小倉山城」の「出丸(出城)跡」と言われる。
本寺は、永禄6年(1563年)に大圭紹琢禅師が保寧寺として開山、
その後、以安寺と改号し、更に関ヶ原の戦いの後、
東軍に属し戦功のあった金森長近により城郭内の現在地に移され、
「安住山清泰寺」と寺号を改めたという。
正面入口付近。
「参道」は、正面の壁の前で左に折れ、
「山門」。
「山門」を内側から。
境内を囲む壁は、ただの塗り壁ではなく、
瓦を積み上げ、漆喰で固めたもの。
「山門」の「門扉」。
いつの時代のものかは不明だが、
乾燥して隙間が開いているところをみると、それなりに古そうだ。
解説板。
金森長近公と清秦寺(解説板)
此の寺内社は金森大権現と称し金森法
印長近公を祀ったものです 金森長近公は
典型的戦国武将で一介の武士から遂に飛
騨国主となった人物 慶長五年(一六〇〇
年)関ヶ原戦の功によって更に鉈尾山城
佐藤氏の領地武儀郡(二万石)を加封され
小倉山城を築き城下町上有知(こうずち)
をつくりました
その時以安寺(佐藤氏菩提寺)を廃し此地
に清秦寺を創建して菩提寺としました
慶長十三年長近公逝去その霊を此所に
祀ったもので江戸時代には南面して規模
の大きい社でした
小倉山城 金森氏は二代長光の幼死により
断絶 その墓が本堂西側墓地にあり 鉈尾
山城主佐藤氏二代の墓も以安寺より移さ
れて同所にあります
美濃市教育委員会
「山門」を入って右側には、「鐘楼」がある。
この「鐘楼」より奥は、プライベートスペースなので、立入禁止らしい。
「山門」を入って正面付近。
お約束の屋根瓦モニュメント。
このモニュメントと先程の解説板の間に、西側へ通じる道がある。
道を進むと、中程辺りに立派な門がある。
この門と壁の向こうに「本堂」があるらしい。
この日は、休日ということもあり、門は閉じられていた。
僅かに「本堂」の屋根が見えるのみ。
「本堂」西側の墓地にあるという金森家の墓や
鉈尾山城主佐藤氏二代の墓を見たかったが、残念だ。
境内の西奥に、柵で囲われた場所がある。
門には扁額があり、「金森大権現」とある。
先程の解説板は、ここにあった方が良い気がする。(汗)
内部には、苔生した祠が3つあり、
左右の祠には白狐様がそれぞれ1体ある。
「清秦寺」の探索は以上にして、寺の西側へ。
「山門」を出て、先程とは反対側の階段を降りる。
「拝殿」らしき建物があるので、神社かと思ったら御堂だった。
周囲には、石仏等がいくつもある。
御堂の更に西側には、「大師堂(弘法堂)」がある。
正面入口。
「子育地蔵尊」と「弘法大師」の石碑がある。
「清秦寺」とこの2つは、どういう関係なのだろう?
全ては見られなかったが、「山門」付近等、まさに城構えだと感じた。
それにしても、ここは紅葉の季節は、良い感じなのだろうな。
その頃、墓を見に、再訪するかな。(笑)





























