瑞甲山乙津寺(岐阜市) 前篇 | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 平成28年 3月 5日


今回訪問したのは、

岐阜市鏡島中2-8-1にある「瑞甲山乙津寺」。

臨済宗妙心寺派の寺院であるが、

通称「鏡島弘法」「弘法さん」と呼ばれ、

正式名称より通称で呼ばれることが多い。

梅の名所であり、別名「梅寺」。

境内の弘法の梅は、空海が杖を地面に刺したところ、

その杖が梅となったと伝えられており、別名はこの伝承によるもの。

毎月21日の縁日は大変賑わい、警察の臨時警備本部も立つ。

本尊は十一面千手観世音菩薩、不動明王。


旧中山道沿いに建つ寺標。

側面には、通称の「鏡島弘法」と「梅寺」も彫られている。

この道を道なりに右に曲がっていくと「南大門」前に出る。

車での訪問の場合は、こちらが便利。

乙津寺74 乙津寺79


「南大門」付近。

門の右側が駐車場。
乙津寺80


「南大門」。
乙津寺1


門の手前にある散策案内の案内板。

乙津寺2 乙津寺3


「南大門」左手前にある「観音寺」。
乙津寺4

「観音寺」手前にある「縮緬の記念碑」。
乙津寺6 乙津寺5


縮緬の記念碑(解説板)

西濃から尾張西部にかける一帯は江戸時代から織物が盛んで、岐阜は”縮緬”の産地でした。特に、昭和の半ばまでは鏡島・市橋地区を中心に生産され、丹後・長浜とともに三大縮緬産地といわれていました。

「朝日縮緬」は鏡島村江崎の稲葉(鷹治郎)氏の考案で、織り方などに工夫をして新商品として出されたものです。以降、岐阜のほとんどの縮緬はこの方法で織られ織物産業が一段と盛んになりました。

設置:鏡島 史跡と花文化研究会 平成24年12月9日



「南大門」から境内へ。

すぐ左手に「浄水」。
乙津寺9 乙津寺10


「浄水」の奥に、少しかすれた縁起碑がある。
乙津寺11 乙津寺12


日本三躰除厄弘法大師 瑞甲山乙津寺(梅寺)(解説板)

 奈良時代、七三八年行基菩薩が乙津島に着船

されここを仏法縁由の地と定め、自ら十一面千

手観音像を刻み草庵に安置されました。

 八一三年弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の

勅命を受け、当地で秘法を尽くし天に誓い地に

伏し祈祷すること三十七日間行い、宝鏡を龍神

に手向けますと忽ち滄海変して桑田と成りまし

た。よってこの地を鏡島といゝ、寺を乙津寺と

名付け七堂伽藍塔頭五ヶ寺鎮守等、多数が造営

されました。大師は開山堂前に梅の杖を上下逆

にして挿し、「仏法この地に栄えばこの杖に枝葉

も栄ゆべし」と仰せられました。すると不思議に

も杖に枝葉が生じ花をつけましたので、梅寺と

も呼ばれています。八九三年宇多天皇より下賜

された「霊梅場」の額を楼門に掲示していました。

その時の「下乗」の石標が現在もあります。

 古くは真言宗で鎌倉・室町のころは、京都

御室御所(仁和寺)が、乙津寺住職を兼務され、

老後は当寺に専任されました。関白太政大臣

一条兼良公は「応仁の乱」を避けて幼年文学の友

であった住職又妻子に会いに来て滞在され、妻子

は当寺に残されました。よって兼良公の正室東

御方の墓(宝篋印塔)があります。なお連歌師

宗祇法師など著名人が参詣祈願しています。

 天文の大洪水と重なる政情不安で寺門が衰微

した時、鏡島城主石河駿河守光清は伽藍を再建

し、一五四五年京都妙心寺より弧岫禅師を招い

て禅密兼学の道場としました。二世蘭叔禅師は

「酒茶論」を著した高僧であります。

 織田信長公、豊臣秀吉公、江戸時代には梅寺

瀬踏開運地蔵尊霊験なりと徳川将軍家の信仰厚

く、朱印状により寺の建物境内樹木が保護され

寺領五十五石を頂いております。又雪舟を含む

多くの書面古文書を保持していました。

 一九四五年、第二次大戦中の岐阜空襲で堂塔

のすべてを失いましたが、国重要文化財と弘法

大師像は奇跡的に難を免れました。

 今は国や十万信徒諸氏のご協力で、法灯が受

け継がれております。



裏面には、「戦後の復興と文化財史跡」が記載されている。

乙津寺71


「浄水」横にある「地蔵尊」。
乙津寺13


「弘法大師 梅の杖」。

解説用の石碑が建つ。
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弘法大師 梅の杖(解説板)

 弘法大師ここにさし立てた梅の錫杖が

 芽ぶき聖なる力をもつ霊梅と言い伝えられています。

弘法大師御自詠歌

 さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺

      法もひろまれ 鶯のこえ



「大師堂」前の「拝殿」でお参り後、広い境内を探索。


先ずは北側へ。
乙津寺17


北端にある「国宝安置殿」。

実は、ここに本尊が祀られている。

従って、ここが「本堂」にあたる筈。

境内絵図にも括弧して「本堂」と記載されている。

「大師堂」の方が立派、且つ、参詣者が多かったりする。

知らなければ、「大師堂」が「本堂」だと思うよな。(汗)

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「鬼瓦」。

「梅寺」だけあって、瓦にも「梅紋」がある。

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名前は「国宝安置殿」だが、本当の意味での「国宝」は無い。

重要文化財も国の宝には違いないが、何だかなぁ。(汗)

国重要文化財「木造千手観音立像」「木造毘沙門天立像」

「木造韋駄天立像」の解説板。

「国宝安置殿」には、この他にも色々と安置されているらしい。

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「国宝安置殿」左の通路を奥へ進む。


正面に「不動明王堂」。

通路の屋根のため、イマイチ全体が分かり辛い。
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解説板。
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 不動明王(解説板)

弘法大師は中国より

船で帰国のとき嵐に

見舞われ、不動明王の

真言を唱えて、難航

を乗り越えました。

 災難除け、開運、

 病魔除け。



更に奥の堤防際に墓地がある。

墓地は、「涅槃の霊廟」と名付けられている。
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「本堂」前まで戻り、「本殿」の東側へ。


左「慈母観音」と右「馬頭観音」。

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2体の「地蔵尊」の隣に「願地蔵」。

この「願地蔵」には、少し長めに手を合わせる。

何をお願いしたかは内緒。(笑)

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「延命地蔵願王大菩薩」。
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5体の「地蔵尊」。
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続いて、「本殿」の西側へ。


「七福神堂」?

「毘沙門天」と「弁財天」を除く五福神を収納してある。
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「地蔵尊」を挟んで「大聖歓喜天」。

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 大聖歓喜天(解説板)

古く弘法大師が唐より密教とともに

仏法の守護神として請来されてから日本でも

祀られた。特に縁結びの霊験あらたかで

夫婦の和合、子授け、福運厄除の神として

信仰され、あらゆる良縁を結んでいただけます

御真言

おん きりいく ぎゃくうん そわか

(三返または七返・二十一返・百八返)



「歓喜天」の西側、「不動明王」の南側にある「水向地蔵尊」。
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ここまでで、境内の4~5割。


続く。