いいじゃない それが僕のやり方 | JIROのブログ

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「話しの中身がどうなれこうなれ気持ちも知らずに」だべっていくと思いますが、他人様を傷つけることのないようにしていきたいと存じます。

「「サザン教」信者の僕が長渕剛氏のYouTubeチャンネルを真剣に視聴してみました」

(『爆笑問題の爆テン!』視聴者投稿、風)

 

 

なんか、こう綴った時点で石が雨霰と投げつけられてきそうだ(笑)。

 

桑田佳祐さんと長渕氏、めいめいが「メル友」の太田光さんと上田晋也さんが

ローカル番組をやっていて人気なんでしょ?

観たこたぁないけど。

 

念のため断っておきますが、アタシは双極性障害(いわゆる躁鬱病)で

テレビとか、映像メディア全般を「疲れる」から観ないのです。

 

 

素直な感想として、「ひとつ」という曲が凄くいいな、って。

CD借りてこようかな、と思いました。

 

そもそも、楽曲の制作における過程が全く異なる(のであろう)

桑田さんと長渕氏を、歌詞の一部分だけ切り取って

 

桑田さんの表現では「都合のいい大義名分(かいしゃく)」で、

いわゆる「イエローメディア」が

喧嘩をふっかけさせること自体無意味だと思うのですが。

 

「(前略)そして今日の俺はどこの誰であろうかという

“成りゆきのアンテナ感覚”という自由さが重要だと思う。

成りきった以上は、己の才能への気遣いなど、その場でブッ飛ばす。」

(『ケースケランド』集英社文庫、1986、57頁)

 

と、1981年時点で桑田さんは「主人公」を設定して楽曲づくりをしているので、

アタシが聴いた限りでは「一人称」視点で楽曲をつくっているであろう

長渕氏と一概に比べることは、

 

「同じ時代に文筆活動をしていた」だけで、

志賀直哉と太宰治を同じ俎板に乗せて語ることと同じく、

本当の面白さや奥深さは導き出せないとアタシは感じました。

 

 

前もって断りましたように、アタシは「サザン教」信者なので、

長渕氏を敬愛されている方々からしたら別の視点があるであろうと

承知しております。