お久しぶりぶり~、あ~、ぶりぶり~(©ユースケ・サンタマリア)。
Xに嫌われてしまったの、紙クズみたいに。
というわけで、「話しの中身がどうなれこうなれ気持ちも知らずに」言い捲る場所をこちらに戻させていただきます。
復帰第1回目にどうしても書かせていただきたいのは、「想像力」というものについて、どうもこのところ憤りを感じておりまして、ということでございます。
きっかけは2、3日前のNHKニュースで「女の容疑者が云々」と報道していたんですけど、「女の」っているか?とつい考えてしまいまして。
苟も公共放送がこんな体たらくだから、我が国のジェンダー・ギャップは「先進国」で最下位に近い水準のままなのではないかいな、なんてことにも思いを馳せてしまいまして。
まあ、アタクシも男性と女性の格差を意識させる文体をはからずもとってしまっているのは確かです。
一度はある人物を紹介するときに「男の中の男」ってつい書いてしまい、その後で「非の打ち所がない紳士」に改めました。
(これはこれで受け取られ方に影響するのかなぁ……)
ただ「女性だから」という理由だけで不当に蔑むようなことは言っていない筈。
(二次創作に登場させている悪玉が差別的な発言をすることはありますが、そういった輩には必ずしっぺ返しがくるようにはしている)
ジェンダーってことではないんでしょうけど、卒業論文の題目は『新渡戸稲造の女子教育思想』でございました。
その内容についてはいずれ触れるのやもしれませんが、15年前に使った資料の綴りをつと読み返していたみぎり、新たな発見がございまして。
新渡戸稲造博士(アタクシが世界で最も尊敬する人ですのでこう書かせていただきます)曰く、
Common Senseというのは日本語では「常識」という訳語をあてられているんですけど、そういった事物一般の知識にはとどまらないものである、と。
「市井の普通人はどう考えどう働いているか、公の出来事はどのようにして起こるかを知らない人」は勿論のことでありますが、
そういったことを知っていて「専門センス」(言葉遊びですね)もわきまえている人であれ、「正邪を判断し、善悪を区別し、正不正を決定する力をもっていなければ」やはりコモンセンスは欠けているのだ、と。
およそ95年前(1930年)に書かれた文章を参考に致しました。
こうした意識がアタクシを含めた現代人にはやっぱり失われつつあるなぁ、と昨今の世相を見るにつけとみに感じております。
とどのつまり、総ての日本人が様々なカタチで思いのたけを簡単に発信できるからこそ、受信する人たちがどのように理解するのか、という想像力ないし配慮を忘れてはならない、とアタクシ自身への戒めとしても敢えて申し上げておきたいのであります。