今回は智です。


同じような意味で慧と合わせ、智慧と用いられることがあります。

ここでは、智慧という字と智と慧とを分けた字を考えます。


辞典によると、部派仏教以降に、このような二つに分けて、智を論ずる

ことが多くなったそうです。


説一切有部では智を「心作用としては慧に含まれるが、特に覚りに導く

心的能力として慧の中心的意味を担う」と、しているそうです。


分けて論ずるにしても、智と慧はどうやら不可分の心的能力である

ようです。


「慧に含まれる」と、ありますから智は慧の部分であって、

「慧の中心的意味を担う」と、ありますから、

智が抜けては智慧が成り立たないでしょう。


般若心経では空中つまり空の世界には智は無いと書いてあります。


智は現実の世界にあって、空の世界には無い。

とすると、慧は専ら空の世界で力を発揮する能力だ、となります。


覚りに導く心的能力としての慧の中心的意味を担う智が無くては、

当然覚りを得ることはでないでしょう。


したがって、般若心経には「空の世界には智が無い」の後に、

「得」つまり覚りも無い、覚りの結果得られるところの「所得」つまり

覚りの成果も無い、と書いてあります。


これは空の世界のことです。


そこで「空中無色無受想行識・・・・・無智亦無得以無所得」

と書いてあるわけです。


ここで「得」は得るものではなく、「所得」は得られたものでもない。


智が覚りに導く心的能力とすれば、ここは大事な意味になります。

その辺で物が得られるといった世俗的な意味ではないでしょう。


この辺の意味をきちんと把握しているか否かは般若心経の全体構造

にかかわってくることなので重大なことなのです。


空の世界という仮想空間を想定しないで、頭から平面的に解釈して

くると、このあたりは恐ろしく抵抗を感じます。


平面的に解釈しても、無眼耳鼻舌身意くらいはいいでしょう。

でも、無苦集滅道や無智、無得、無所得はちょっと受け入れがたい

でしょう。


現実の世界に覚りや覚りの成果が無いということになっては大変です。

仏道が成り立ちません。


ここはきわめて単純明快に「空の世界にはお釈迦様の開発された法も

はたらかない。覚りに導く力もない。したがって覚りもその成果もない」

と、なります。


だから、菩提薩埵は現実の世界で、現実の世界の修行法である

般若波羅蜜多に依った、と次に書いてある言葉も自然に繋がっていきます。


般若心経に書いてあることは意味明瞭、単純明快です。