今回は、空海の三教指帰にある、谷がないのに
「谷響きを惜しまず、明星来影す」
はおかしい、です。
四国に空海ゆかりの地を訪ねた私の友人にこのことを話すと、
たしかに室戸の崎には谷はないけれど、文章のその部分の前に
「大滝岳に躋攀し(せいはんし―よじのぼる)」
とあるから大滝岳でのことだろうといいます。
しかし、日本語のすべての音を漏らさず残さず、
すべてを組み立て意味ある「いろは歌」に組み立てた空海です。
そんな杜撰な文字の組み立てをするはずがありません。
たしかに、大滝岳でも真言はとなえたかもしれません。
しかし、大滝岳では谷は響きを惜しんだのです。
求聞持法は室戸の崎で成就したのです。
ここで「阿国大滝岳に躋攀し、土州室戸の崎に勤念す」と対比させたのは、
山と海を対比させただけでなく、修行の仕方を対比させたのです。
山岳の行と海の行を対比させたのです。
行動を伴う「躋攀」と行動を止めた「勤念」という修行法を対比させたのです。
そして山岳の行は成功しなかったのです。
海の行で成功したのです。
「阿国の大滝岳に躋攀し」の前には「大聖の誠言を信じ、鑚燧(さんすい)に飛燄(ひえん)を望み」とあります。
「鑚燧に飛燄」とは木の棒を木の板に揉み押して、火を起こし、火花が飛ぶことです。
これは、お釈迦様の修行のうち苦行の部分をいっているわけです。
お釈迦様は苦行だけでは覚りを開けず、最後に菩提樹の下で瞑想つまり「勤念」し覚りを開きました。
空海もお釈迦様に倣って、錐揉みをして火をおこすような辛い修行をすれば行は成就するであろう。
とそのように望み大滝岳によじ登るなどして行を続けたけれど、
結果は、ただよじ登るだけに終わった。
そして、室戸の崎の洞窟で念をはげまし遂に行を成就した。
空海の名前を見てください。
「海に空ず」とあるではないですか。
つまり、求聞持法は室戸の崎の洞窟で成就したのです。
では、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とはなにを示しているのか。
それは次回に解明します。