1ヶ月近くこん睡状態に陥っていたイサオは、体力もかなり落ちていた。
未だ歩行は覚束ないものの、リハビリに取り組んでいた。
病室に戻ってもイサオは、握力を取り戻すために、ボールを握ったり、緩めたりしていた。
リハビリを手伝っていたコリンは、さり気なくイサオに聞いた。
「シアトルにいた頃、ニック・グランド刑事と会ったことがある?」
「誰だい?覚えがないね。」
その場にいた、デイビットはイサオは本当のことを言っていると確信した。
イサオの表情をどれをとっても、不自然な所は一つも見当たらなかった。
コリンも同感であった。
「俺が14の時に、妹殺しの容疑で金持ちを調べた担当の若い刑事だよ。」
「コリン、どうして、シアトルの刑事の事を聞くんだい?君の知り合いか?」
「シアトルじゃなくて、マイアミの刑事だ。俺の知り合いじゃない。イサオが目を覚ますまで、この事件の担当の刑事だったんだ。17年前に、シアトルでイサオとカフェにいたのを、見ていた人がいてね。それが原因で、担当を外されたんだ。」
「何でだい?カフェで、刑事と会った覚えはないよ。」
コリンは、17年前にシアトルのカフェの前で、不良少年同士の喧嘩が起こり、一人の少年が頭を撃たれ、カフェにいたイサオが、少年の救命処置をし、ニック刑事が病院に運んだ話をした。
そして、その件がニック刑事の上司の耳に入り、2人が以前からの顔見知りだと判断されてしまい、ニックが自宅謹慎にされたことも話した。
「あっ、思い出した!あの事件か!マイアミの刑事から、カフェに呼び出されて、金持ちの話を聞かれたが、俺は断った。契約とか、色々とあって。その時に、あの事件が起きたんだ。その時の刑事が、ニック・グランドと言うのか。すっかり名前を忘れていたよ。でもね、コリン。僕は、その刑事とはそれきりなんだよ。で、その少年は今は元気か?」
「元気だよ。更生して、奥さんと子供がいるそうだ。」
イサオは、ほっとした顔付きをした。
「元気でいて良かった。あの少年も、俺の様に左目の脇から撃たれたんだ。助かったのは、奇跡だったよ。」
コリンは、不思議な因縁を感じた。
「ニック刑事の上司は、見当違いをしていたな。」
デイビットが言った。
夕方になり、コリンとデイビットは病院を出た。
「ねえ、警察署に行こう。」
コリンの誘いに、デイビットは乗った。
事前に、署に連絡すると、マックス刑事が出た。
コリンが、イサオから聞いた17年前の話をすると、マックス刑事は喜んだ。
「これから、私は上司に会いに行って来る。コリン、感謝するよ。」
署に付くと、マックス刑事が廊下で落胆していた。
「ニックは停職になり、コンビを解消された。私は、明日から新人刑事と組むことになったよ。」
「いくらなんでも、酷いや。俺が言って来る。」
マックス刑事は、熱くなったコリンを制した。
「ニックが、謹慎中に病院に行った事や、情報屋のジュリアンと会っていた事が、ばれたんだ。」
「ジュリアンは、小学校からの親友でもある。会っただけで、停職なんて。」
「それがな、コリン。ニックはジュリアンと、もう一人の親友・アーサーの店で飲んでいて、上司の悪口を言ってしまったんだ。かなり際どい事も、大声で言ってしまった。上司が逆鱗してもおかしくない事もね。停職になったのは、ニックのせいなんだ。」
後ろで、マックス刑事とコリンのやりとりを聞いていた、別の刑事がふふっと笑い、話に割り込んできた。
「マックス話してやれよ。上司がお帽子を被っていると、ニックがアーサーのバーでバラした事をさ。古女房すら、気付かなかった高級なものをお被りになっていた事も。いや~、俺も分かんなかったな。」
コリンはきょとんとした。
「俺もこれから、上司にお願いしてみるよ。ニックが余りにも可哀想だ。他の刑事達も、頼んでいる様だし、停職期間が軽くなるんじゃないか。」
刑事は、奥の部屋へ歩いて行った。
「ニックは、同僚に慕われているんだね。」
「昔の彼を知っている者は、みんなそうだ。わざわざ来てくれたのに、悪かったね。」
今度は、デイビットが、マックスに尋ねた。
「ニックは病院に行ったそうだが。出来れば結果を教えて貰いたい。顔色が悪かったから、気になっていたんだ。」
「何と正常だ。皆びっくりしたよ。顔色が悪い上に、痩せてきたけど、結果が正常なら、私は安堵しているよ。」
「俺もだよ。きっと、ジュリアンとアーサーさんも同じだと思う。」
コリンとデイビットは署を後にした。
3月の爽やかな朝、コリンは目を覚ますと、いつもの様にiPhoneを見た。
イサオの兄・青戸隼からメールが入っていた。
「仕事に一区切りが付いたので、勲の見舞いに行きます。」
コリンは慌てて、青戸隼へ掛けた。
留守電だった。
「早いな。もう飛行機に乗ったのか。」
コーヒーを入れてくれたデイビットに、隼の事を伝えた。
「急に来るということは、何かあったのかも知れないな。」
サラに連絡を入れたが、彼女も既に隼からメールが届いており、彼女も困惑していた。
「全く、皆の事を考えていない。けしからん奴だ。」
父親の青戸猛が怒っていた。
病室で、サラから隼が見舞いに来ることを聞かされたイサオは、笑った。
「兄貴らしいな。」
「お会いしている時は、計画性のある真面目な方にしか見えなかったわ。突然に事を起こす事があるの?」
「東大に合格して上京する時や、警視庁に入局した時もそうだ。結婚もそうだったなぁ。何時も、家族には事後承諾さ。」
ブライアンが、コリンとデイビットに、秘密結社に関して新たな情報をもたらしたのは、その日の夕方であった。
「FBIから得た情報だ。マイアミの秘密結社に、“老人”と呼ばれるメンバーがいる事が判明した。薬剤師が、職場から遠く離れた公衆電話に、そのメンバーと会話していた。FBIはその盗聴に成功した。」
「内容は?」
「『準備は出来た。』だけの短い会話だった。掛けた先は、商店街の中にある公衆電話だった。FBIが急行したが、それらしき男が見付からなかった。お互い仇名で呼び合っていた。薬剤師は、“紫陽花”で、相手は“老人”だった。」
「面白い仇名だな。」
「FBIは、マイアミ警察の署員から、“老人”を探している。FBIは、彼の事をリーダーかサブリーダーではないかと見ている。薬剤師の方は、FBIがまだ泳がせている。少しずつ、尻尾を出している。そちらはどうだ?」
「情報屋のジュリアンからは、何も連絡は来ない。イサオのお兄さんが、急遽明日にマイアミに来ることになった位だ。」
「明日か?随分、急だな。警視庁で、凶悪犯罪を担当している捜査1課課長を勤めている方と、聞いている。」
「仕事に一区切りが付いたからだとメールで書いてあったが、本当の理由は何だろうな。」
翌日、青戸隼は、マイアミの空港に到着した。
サラが迎えに行くと申し出たが、断ると、一人でタクシーで、病院へ向かった。
病院の正面玄関で、サラ、青戸猛、デイビットとコリンが出迎えた。
身長185センチのイサオより、数センチ高い隼は、紺のストライプの背広を着ていた。
現役の警察官僚らしく、細身だが身体つきがしっかりとしている点は、弟の勲に似ていた。
声や顔付きは、父親の猛にとても似ていた。
勲と似た、とびきりの笑顔で、サラとハグをした。
コリンとデイビットとも、挨拶を交わした。
お堅い役人とは思えない、明るくて、大らかで、気さくな人物という印象を、2人に与えた。
隼は父親の猛に、「体調は?」と聞いてきた。
猛は、「大丈夫だ。サラさんのお陰で、血糖値は安定している。」と答えた。
コリンは、隼と猛は普通に会話をしているが、2人の間には隙間がある様に感じ取った。
病室で、隼はイサオと再会した。
「元気そうで安心したよ。突然の見舞いで、驚かせたな。」
「いいんだよ。忙しいのに、よく来てくれた。奥さんや、杏子ちゃん達は元気?」
隼には、30年連れ添っている妻と3人の娘がいる。
長女・杏子は、結婚し家庭に入り、次女・桃子は大学院生で、三女・梅子は大学生である。
女家族の為、隼は自分が忍術を学んだ事を語っていなかった。
「妻と3人の娘は、元気だ。ニンジャ騒動で、こっちも騒がしくなってね。妻は、三女の梅子と共に実家に戻っている。」
「えっ?」
「マスコミがうるさいのと、忍術を教えてくれとの電話が鳴り響いてね。俺が、女房に実家に避難するようにと言ったんだ。杏子は、ご主人は理解あるが、向こうの両親から色々聞かれて困っていると言っていた。何で、教えてくれなかったのだと、叱られたよ。モントリオールに留学している桃子からも同じ事を言われたよ。騒ぎも一時的なものだ。その内、皆忘れるよ。」
笑いながら、隼が話した。
側で聞いていた猛は、声が出なかった。
40年前に自分のした事が、ここまで広がっているとは思いもしなかったのだ。
青戸隼がアメリカに来て最初の夜。
サラが、自宅に隼を招き、手料理を振舞った。
コリンとデイビットも参加していた。
英語を流暢に話せる隼は、時間が経つにつれて、会話も弾み、笑顔が増えた。
それでも、隣に座っている猛との距離は離れているなと、コリンは感じた。
夕食会の最中に、コリンはiPhoneのマナーモードが鳴ったのを気が付いた。
ちらっと見ると、登録されていない電話番号だったので取らなかった。
『きっと間違い電話だろう。』
食事会も終わり、コリンとデイビットはアパートに帰った。
シャワーを浴びる前に、iPhoneをチェックした。
留守電が一件入っていた。
先程の電話の主からだった。
コリンが何気なく聞くと、驚くべきことにジュリアンの声がした。
「驚かせて済まない。どうしても、連絡しなければと思ってね。これから、ジョージア州アトランタに行って来る。そこには、貧しいアルコール依存症の患者を引き受けてくれる施設があるんだ。そこの施設に、先月入所した男が、イサオが撃たれた現場近くに住んでいたんだ。職員の話によれば、イサオを撃った犯人を見たと言っている。しかし、虚言癖があるので、鵜呑みには出来ない。私はその男に会って、裏を取ってくるよ。」
コリンは大慌ててで、デイビットに伝えると、電話を掛けた。
「やあ、コリン。食事会の邪魔をして申し訳なかったね。デイビットも側にいるかい。」
「ああ。いるよ。」
「彼にも伝えてくれ。」
「目撃者が現れたんだね。」
「用心しないとな。虚言癖がある男だし、職員も半信半疑だ。金目当てで嘘を言っている可能性も、否定出来ない。一応、話だけ聞いてみるよ。」
霧の中から、音が少しだけ聴こえてきたと、コリンは思った。
=====
アルベルト・ウェルバーは、配下の“老人”がニューヨークから戻ってきたのを待ち構えていた。
「あそこのリーダーを、行方不明に仕立てたのは、見事だ。FBIも、我々がしたとは思わないだろう。」
今回も、“老人”は、リーダーを消して、他の同志を助けた。
ニューヨークの他の同志達は、ウェルバーの存在は知っているものの、名前や顔が分からなかった。
マイアミへ飛んだ同志達は、ウェルバーやマイアミの同志達と面識はあったが、クラブでの襲撃で、ブライアン・トンプソンが全て片付けていた。
同志達は、リーダーが行方不明になったのは、マイアミでの襲撃に失敗して逃亡したと思い込み、平静さを失っていた。
家はもぬけの殻で、現金も銀行から引き出され、空港の駐車場に車が置かれてあったからだ。
“老人”が細工したものだった。
そして、“老人”は、リーダーから奪い取ったデーターを使い、同志達を集合させた。
「マイアミのリーダーの命令で、秘密結社は解散する。」と“老人”に言われ、同志達は混乱した。
自分たちのリーダがいなくなった同志等は、新しいリーダーを選ぶ暇も与えられず、解散命令が出されたのだ。
話し合いが持たれたが、“老人”からFBIがかなり深い所まで捜査している状況を伝えられると、彼等は解散を受け入れる他無かった。
皆、己の保身の為に、口を固く閉じ、“老人”は秘密結社の痕跡を綺麗に拭き取った。
“老人”は、ウェルバーに嘘の報告をした。
「ニューヨークの同志は、全て片付けました。」
ウェルバーは、今回も信じてしまった。
リーダー同志しか顔を合わせていなかったウェルバーは、他の同志の顔をろくに知らなかったので、確認のし様がなかった。
ウェルバーは新たな命令を下した。
「帰って早速だが、ルドルフを調べろ。あいつ、若い同志を焚き付けて、クーデターを仕掛けている。どの位の連中が賛同しているか、探って来い。」
ウェルバーは“老人”を、若い同志とは見なしていなかった。
忠実な番犬と信じ切っていた。
「はい。分かりました。」
“老人”はウェルバーの家を出ると、黒髪のカツラを付けて変装をして、シェインの職場の薬局へレンタカーで向かった。
薬局の客を装い、さり気なくトイレの個室に入った。
程無く、シェインが入って来たので、“老人”は個室から出て、手短に会談した。
シェインが『準備が出来た。』と言ったのは、金と同志達の事であった。
ミーシャが前金として、報酬の半分を用意していた。
シェインは、他の同志達を纏めていた。
その中には、コリンの手で倒された警官・カルキンの従兄弟も含まれていた。
アルベルトに付いて行く者は、3名ほどの年配の刑事だけであった。
後やる事は、ルドルフの決断を待つのみ。
シェインは、先にトイレから出た。
その数分後、“老人”はトイレから出て、ビタミン剤を1瓶購入すると、その足でルドルフのマンションを訪れた。
“老人”は、ニューヨークの成果をルドルフには、正直に報告した。
ルドルフは満足気だった。
“老人”は悲痛な表情を見せた。
「うかうかとしていられなくなった。我々の企みが、ウェルバーにバレてしまった。俺に、とうとう君を殺せと命令してきた。君がいなくなれば、若い同志達は黙ってウェルバーの元に戻ると、思っているぞ。」
ルドルフは、“老人”の大芝居にまんまと騙された。
「とうとう身内まで、手を下すのか。」
ルドルフは愕然とし、膝がガタガタと振るわせた。
「ロシアン・マフィアの生き残りが戻ってきた。シェインが、アパートに隠している。」
「ミーシャが?!」
「うちの秘密結社しか、頼る所が無いそうだ。もう後戻りは出来ない。仕事をして、彼の金を頂いてから、俺達も休もう。その間に、ルドルフが望んだ、組織に作り変えれば良いんだ。」
「しかし、我々が内紛をしていたら、イサオの父親や友人達が我々を襲って来るのでは?」
「問題無い。彼等は動けない。イサオの周りには警察が張り付いているし、今日からイサオの兄が、見舞いに来ているんだ。彼等は、そっちに目がいっている。」
「ニンジャの子供が、もう一人来たのか?」
ルドルフは、びっくりした。
「只の見舞いだ。兄貴は、現役の警察官僚だ。弟の復讐しに来たんじゃない。8日間程の滞在だそうだ。それから、カナダに留学してる娘に会いに行く予定になっている。だから、心配するな。」
ルドルフは、一瞬だけ緊張が解けた。
時間が掛かったが、ルドルフは決心した。
「頼む。」