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Mr.Gの気まぐれ投資コラム

50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

女性士官が操作盤を操作

 

2026年1月3日、アメリカのトランプ大統領がベネズエラを攻撃し、マドゥロ大統領夫妻を拘束した。

 

平和ボケしている日本人にとって十分衝撃的なニュースではあるが、トランプ大統領の暴挙とは言えず、事前に綿密に計画された作戦であり、それを見事にアメリカは成功させたと考えるべきだろう。

 

敗戦国でありアメリカの属国である日本としては、たとえそれが国際秩序に反する行為であったとしても、その行為を批判することは難しい。

 

中国やロシアにとってはかなり挑発的な事件であったことは間違いなく、普通にはらわたが煮えくりかえっているだろう。

 

そして、どのような正義の名目に基づいた軍事作戦だとしても、今回の行為は二次世界大戦以来非常にまれな現職国家元首を対象とした越境軍事捕縛事件であり、国際秩序に挑戦し、国家主権と国際規範の権威を揺るがし、地域および世界の安全保障に緊張をもたらすとともに、アメリカ自身の国際的イメージにも深刻な悪影響を与えたことは事実であろう。

 

今回のベネズエラへの武力介入で重要なのは、アメリカがその行為の正当化に用いた論理構成であり、ベネズエラの国家中枢が犯罪組織と一体化していると判断されたことにある。

 

国家が組織的に麻薬を生産・流通させ、他国の国民を害しているのであれば、それはもはや主権国家ではなく「犯罪組織に占拠された統治体」と認識されうるからだ。

 

この認識と理解に立てば、ベネズエラ問題は外交問題ではなく、アメリカ国内治安に直結する国家安全保障問題となり、アメリカは自国の安全保障問題として対処したという論理が成り立つ。

 

この論理に立てば、今回のベネズエラ攻撃は、アメリカへの犯罪行為に加担している容疑者を拘束するための手段にすぎず、その容疑者こそマドゥロ大統領その人だったということになるのだ。

 

アメリカは安全保障の関与における優先順位を、新安保戦略で次の三段階に定めている。

 

最優先地域:アメリカ合衆国
優先地域:西半球(南北アメリカ大陸と周辺)
その他の地域:関与は限定的・条件付き

 

コロンビア、メキシコ、キューバ、イラン、グリーンランドが目下の安全保障上の対処優先国という事になるだろう。

 

その中でも、安全保障という名目でベネズエラ同様に資源の宝庫であるグリーンランドをめぐる紛争が懸念される。

 

トランプ大統領は今月5日、大統領専用機エアフォース・ワンで「国家安全保障の観点からグリーンランドが必要だ」と記者団に語り、この地域は「ロシアと中国の船で至る所が埋め尽くされている」と問題視した発言をしている。

 

グリーンランドは北極圏にあるデンマーク自治領の広大な島で、スマートフォンや電気自動車(EV)、軍事機器の生産に不可欠なレアアース(希土類)が豊富だ。

地球温暖化の影響で北極海の氷が溶けるにつれて新航路が開拓され、グリーンランドに埋蔵される資源の獲得競争は激しくなる見通しだ。

 

アメリカ政府の意図は、先ず第一にマドゥロ政権の排除と刑事訴追にあるとされる。

 

トランプ政権はマドゥロ大統領を長年にわたり麻薬テロリズムや犯罪行為への関与で起訴しており、国外に連行してアメリカで裁く意図があると表明しており、2020年3月26日にはベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を起訴している。

 

起訴の内容は米国司法省に依れば、マドゥロ氏および他の14人のベネズエラ現・元政府高官を、麻薬テロ共謀、コカイン密輸、その他の刑事責任で起訴。米国は、マドゥロ氏らがコロンビアの反政府ゲリラ組織FARCと共謀し、米国にコカインを「氾濫」させることを企てたと主張している。(REUTERS)

 

次に 麻薬密輸・治安問題への対応だ。

アメリカは過去数か月にわたり、ベネズエラ関連の麻薬船や港施設を攻撃・封鎖するなど「麻薬対策」として軍事圧力を強化してきており、今回の行動はその延長線上として位置付けられている。(TIME)

 

更に、マドゥロ政権の交代を促すこと。

米政府は、マドゥロ政権を「不正な独裁」とみなし、ベネズエラ国内の反政府勢力や民主的移行を支援する可能性にも言及している。(ガーディアン)

 

反政府勢力とは、野党連合(民主団体会議:MUDなど)や、2024年大統領選で当選したエドムンド・ゴンサレス候補とその支持者、そしてマドゥロ政権による弾圧を逃れ亡命中の政治家(マリア・コリーナ・マチャド氏など)を主軸とし、権威主義体制を敷くマドゥロ政権の打倒を目指す勢力で、経済危機と政治的弾圧の中で活動してる。

 

最後に資源・経済的利益の関与が考えられる。

トランプ政権が将来的にベネズエラの石油産業にも深く関与する意向を示しているとの報道もある。

これは単なる人道・治安対策ではなく、地政学的および経済的戦略が背景にある可能性を示唆している。(Al Jazeera)

 

中国はベネズエラから石油を輸入しており、ベネズエラ石油輸出の8割が中国向けだが、中国の石油総輸入量の4%に過ぎない。ただ、中国の一帯一路を含めて南アメリカ政策に影響が出ることは必須だろう。中国は国際法違反で他の友好国と組んで国連の安全保障理事会の緊急開催を要請する可能性があり、これを機に同時に台湾情勢を有利に進めることも考えられる。

 

また、ベネズエラはロシアの友好国でもあり、ロシアはベネズエラに軍事顧問団を派遣し、経済面では、ベネズエラの石油輸出を支援している。

 

問題はトランプがプーチンに事前にベネズエラ攻撃を通知していたかどうかだが、そうであれば今後のウクライナとの話し合いにも何等かの影響が出る可能性がある。

 

この「アメリカによるベネズエラ攻撃」は、正義の観点からも国際秩序の観点からも突っ込みどころが満載だが、アメリカの国家安全保障戦略(NSS)が既にアメリカ・ファーストに移行しており、アメリカが世界の秩序を支えてきた時代の終焉を示している。

 

トランプ米大統領は7日、計66の国際機関から米国が脱退するよう指示する覚書に署名した。

ホワイトハウスによると国連気候変動枠組み条約や国連人口基金など、31の国連に関連した組織が含まれる。

「残留したり支持したりすることは国益に反する」と説明した。

 

日本はアメリカの同盟国ではあるが、アメリカの安全保障に関する優先順位の中では、日本や中国を含むアジアパシフィックの優先順位が低いことは明らかであり、今後はアメリカに依存した日本の安全保障が危機に立たされる可能性はあるだろう。

女性がキツネ耳をつけ、白い服と赤い袴姿でGの文字を持つ

あけましておめでとうございます!

 

今年2026年は、午年(丙午)なので馬の話から始めたいと思う。

 

ドラマ『ロイヤルファミリー』を観て、競馬や競走馬を身近に感じたひとも多いだろう。

 

馬という動物には、他の動物にない不思議な魅力がたっぷり詰まっている。

 

もし機会があれば、馬に乗ったことの無い方は、体験乗馬でも是非チャレンジしてみて欲しい。

 

今までに経験したことのない何かを感じてもらえるに違いない。

 

しかし、なぜ人は馬に乗りたいという衝動に駆られるのだろう?

 

人類が馬に乗り始めたのは、紀元前3021年から紀元前2501年の間と考えられており、東ヨーロッパに住んでいたヤムナ人の遺骨から、日常的に乗馬をしていた痕跡が見つかっているらしい。

 

・・・だとすると、5000年も前から人は馬に乗っている事になる。

 

馬に乗ると、自分のDNAに刻み込まれた馬に乗っていたときの記憶が時空を超えて蘇ってくるような不思議な感覚を覚えることがあるが、馬と人間の5000年にも及ぶ関係を考えればあり得なくもない。

 

動物のなかで、人間を乗せて走ることに5000年もの月日をかけて進化してきた動物は馬ぐらいしか存在しない。

 

今では、競走馬やスポーツとしての西洋馬術、ウェスタン馬術といった競技馬術が乗馬の主たるものだが、かつては戦場で兵器として取り扱われて、人と共に戦場で戦っていた。

 

また、エンジンで動く内燃機関の乗り物が普及する近代までは、人間の主な移動手段であり、運搬や農耕の主動力として活躍していた。

 

言葉の通じない動物と人間の共存関係から言えば、人と最も関係の深い動物が馬だと言えるかもしれない。

 

そして、馬は感情のある動物だが、人が乗って移動するための乗り物であることも事実だであり、クルマやオードバイに乗っている時に感じる恍惚感と乗に乗っている時のものは似たところがあり、乗り物としての歴史的ルーツが馬にあることは明らかだ。

 

私は、コロナ期間中の2021年から乗馬を始めてもうすぐ5年になる。

200鞍くらいまでは記録を付けていたが、一体何鞍乗ったかはわからない。

既に500鞍くらいは乗っているだろうか?

 

年間で乗れる鞍数は、週に1鞍乗るとしても、せいぜい60鞍くらいだ。

ベテランと呼ばれる人達は1,000鞍以上乗っているので、やはりまともに乗れるようになるためには最低でも10年くらいのキャリアが必要と考えられる。

 

最初は、某大手の大規模乗馬クラブに入会してみたのだが、予約が思うように取れないのと部班という馬が前の馬について行く習性を利用したグループレッスンが主体だった為、なかなか一人で馬を操作する技術が身につかないと感じ、マンツーマンのレッスンが受けられる小規模なクラブに移った。

 

やはり、マンツーマンで、1馬場に1頭だけでその馬を自由に操らなければならない状況でのレッスンは密度が濃い。

 

馬の頭脳は人間の6歳児くらいだと言われるが、おおよそ馬の考えていることは、仕事をサボること、食べること、怒られないことくらいで、キチンと怒ってしつけなければサボり癖がつく。

 

面倒くさいのは、乗り手を値踏みする能力があるところで、ちゃんと乗れるひとでないと言うことを気かず動かない馬も居るということだ。

 

そして、馬は一見勇敢に見えて極度なビビり屋でもあるので、乗っている人間が緊張していたり、怖がっていたり、ビビったりすると、それを感じてより不安な状態になる。

 

どうやら馬は、人間が緊張状態にあるときに発する匂いでそれが分るという。

 

その結果、動かないのはまだしも、跳ねたり暴走するといった危険な状態に陥ることもある。

 

一見優雅そうに見える乗馬の世界は、実は命がけというかまあまあ危険と隣り合わせだ。

 

昨年は厄年でもあったが、落馬をして助骨をやってしまった。

 

できれば一度も落ちたくないと最初の頃は思っていたが、技術を突き詰めていくとどうしても落馬の瞬間に遭遇せざるを得ない。

 

上手くなれば落ちることはないと思っていたが、ベテランライダーでも結構落とされることがある。

 

もちろんヘルメットは装着しているし、エアーバックベストという、落馬時に鞍に装着された紐がバルブを解放することでエアーバックが作動するCO2ガスボンベ内蔵の安全器具も装着しているので、落馬のダメージは状況にもよるが、思ったより少ない。

 

何らかのきっかけで、馬の野生のスイッチが入って暴走して止まらなくなり、相当なスピードで振り落とされるのが最も危険な状況だろう。

 

また、厩舎や洗い場での手入れ中に蹴られる噛まれるといった事故も多いようだ。

 

人によっては、それは馬の調教ができていないとか、馬が悪いとか言う人もいるかもしれないが、うちのクラブのボスは落ちたことを馬のせいにすることを絶対に許さない。

 

もちろん、馬が何かに驚いて跳ねるとか、躓いて転ぶとか、何か運の悪い事故で落馬する場合もあるだろうが、基本的にちゃんと乗っていれば落ちることも落とされることもほぼ無いというのだ。

 

いちど落馬を経験すると、その後は結構怖いものでトラウマになる。

 

さて、これだけのリスクを背負ってまでなぜ多くの人が馬に乗りたいと思うのだろうか?

 

もちろん乗馬は楽しいスポーツだ。

 

しかも世の中で唯一動物を人間が一体となってするスポーツなので楽しくない訳がない。

 

馬と共に駆けているときには一切の邪念が吹き飛んで、ある種のハイ状態すら生まれる。

 

馬はどうやら本質的に良い気を放っている生き物のようで、その気に触れることで人間も前向きになれる気がする。

 

乗馬をやっているひとはいくつかのタイプに分類できるが、大別すると馬という動物が好きで乗っているひとと、競技に参加しているかどうかはともかくとして、純粋にスポーツとして馬に乗る技術を追求するひとに分かれるような気がする。

 

ただ、その境界線は微妙というか曖昧であり、そもそも馬という動物が好きでなければ馬には乗ろうと思わないだろうし、乗馬の技術を追求するためには、人間の言葉を話せない馬という動物と上手くコミュニケーションをとって理解しなければそれを上手く乗りこなすことはできない。

 

私は、クルマもバイクも、いわゆる乗り物が好きなので、馬も乗り物好きの延長で乗っており、動物としての馬も好きには違いないが、乗り物としての馬を操る技術を身につけたいと思って乗っている部分が大きい気がする。

 

馬を上手く操るためには、馬のことを知らなければならない。

 

しかし、クルマやバイクと違って馬は感情のある生き物なので、馬を理解することは簡単なことではない。

 

だからこそ、乗馬の世界は終わりのない深いスポーツだとも言える。

 

また、乗馬は元々貴族のスポーツであり、基本的に敷居が高いということは事実だろう。

 

まず、カネと時間が想像以上にかかる。

 

私は今のところ馬を所有することは考えていないが、もし自馬を持ったなら、その購入費用や維持費といったお金の問題と調子が悪くなったり、その馬が死んでしまったりする時の心の負担が半端ではない。

 

競技を目指すのであれば、やはり自馬(オーナー馬所有)前提というのはあるように思う。

 

いろんな馬に乗る楽しさもあるが、競技では完璧にその馬を把握して、一体にならなければならないだろうし、自分に合うように調教していかなければばらない。

 

クラブによっては、自馬でないと受け入れてもらえない競技志向の強いところもあるようだ。

 

私は、競技に出るつもりはないし、どんな馬でも器用に乗りこなすことができるライダーを目指しているので、自馬を持つことはないだろう。

 

あと、始める年齢に関しては、やはり子供の頃から乗っていた方が上達は早いだろうが、子供に乗馬をさせるのはいろんな意味で親が大変な気はする。

 

乗馬には、人間同士のコミュニケーションが上手くない人にとってのセラピー効果もあり、コミュ症のひとが馬とのふれあいを通じて心を開いていくということもある。

 

そういう、いろんな人たちが、それぞれの理由を持って乗馬クラブに通っている。

 

全体としての印象は、まず女性の比率が高い。

 

そしてまあまあ高齢化が進んでいる。

 

あと、長年乗っているベテランの先輩方が多い。

 

鞍数は結構乗っていても、乗馬歴5年というのは乗馬の世界では初心者の部類だ。

 

しかも50歳後半で始めているので、体力的にはまあまあしんどい。

 

いったい何歳まで馬に乗れるのかは分からないが、70代ではバリバリに乗っている先輩方が沢山いる。

 

そして、長年乗馬をやっているひとは年齢に比べて身体年齢がむちゃくちゃ若い。

 

もしろん、運動量的には走っている馬の方が遙かにしんどい訳だが、上に乗っている人間は精神を集中し、馬の司令塔としてすべきことをきっちりして馬を適切にコントロールしなければならないので、30分くらいがその集中力の限界かもしれない。

 

動く馬の上で、一点にきっちり座り、馬の動きを邪魔するような余計な動きを全くしない姿勢を維持するためには、実際には多くの普段使わない筋肉を使っている。

 

乗馬には体力や筋力は他のスポーツほど要求されないが、バランスと体幹がほぼ全てと言ってもよく、馬と一体になる為には柔軟な股関節と究極の「座り」が必要とされる。

 

この「座り」というものができていないと、手綱も脚もちゃんと使うことはできない。

 

ただ、この究極の「座り」を手に入れるためには、それだけで10年くらいかかる可能性がある。

 

馬との完全な一体化を実現している完璧な座りを手に入れているベテランライダーの走りは、無駄な力が一切入って要らず、上半身も下半身も安定している。

 

もし、初心者が乗馬を始めるとして、最初の1~2年をその座りとバランスの訓練だけに費やせばその後の上達は相当効率が良くなるに違いないが、殆どの人はそれではつまらないのでやめてしまうだろう。

 

これは、フィギアスケートの世界とも似ていて、基礎のスケーティングの技術ができていなければスピンやジャンプといった技が身につかないということは分っていても、何年もスケーティングやコンパルソリーだけを延々とやらされていたら飽きてしまって続かない。

 

結局、常に新規会員を募集している大手の乗馬クラブでは、いきなり技術を教える傾向があり、練習馬もそれに対応するような調教を受けている場合が多いが、馬にとっては肉体的にも精神的にも負担が大きくなるというのが問題となっている。

 

また、安全管理を任されるインストラクターの精神的ストレスも大きいようだ。

 

乗馬クラブにいる馬たちは、元は競走馬として生まれたものが多く、引退して乗馬クラブに引き取られてくるものが多い。

 

私は、競馬にあまり興味がなかったので競走馬については詳しくはないが、大手の乗馬クラブでは有名な競走馬やその血を引く馬たちに出会うこともある。

 

わたしはせいぜい『ウマ娘』を観てその血統を知ることがある程度だが、競馬ファンにとってはそれも楽しみのひとつだろう。

 

日本で、競馬の為に生産される競走馬の数は毎年8,000頭以上、そのうち9割が殺処分の運命をたどるという華やかな競馬の世界の裏側についても理解しなければならない。

 

TVドラマ『ロイヤルファミリー』の最終話でも「養老牧場」という話題が出てきたが、引退馬の行き先は限られていて、殆どは殺処分の運命にある。

 

馬の寿命は20年から30年くらいだが、競走馬としての寿命は8歳くらいまでらしく、殆どの競走馬として生まれた馬たちは生まれてから2~3年の間に競走馬としての素質が見いだされなかったり、怪我や故障によって走れなくなってしまった馬は処分の対象となる。

 

走れる馬は、運が良ければ乗馬クラブに練習馬として引き取られるが、それでも役に立たなければ結局処分されるケースもあるし、練習馬としての才能を開花させた馬でも、人を乗せて走れなくなる日まで散々酷使されて走れなくなったら処分される。

 

競走馬時代に怪我などにより走れなくなった馬は、即殺処分の運命となる。そして統計上の数ははっきり分からないようだが、多くは食肉用やペットフードとなるらしい。

 

このような養老馬問題を解決するには、競走馬の生産を減らすか、乗馬をもっと普及して引退馬の引受先を増やすか。養老牧場のような引受先をJRAが支援して増やすか?くらいしかないのだろうが、競馬や一部の商業的な乗馬クラブ以外で儲かる競争馬の再利用ビジネスがない事を考えると難しそうだ。

 

いっそのこと、交通手段をEVとかではなく、馬に戻してしまえば良いのかもしれない。

 

1930年頃はまだ、100万頭以上の馬が飼育されそのうち70%が農耕用、30%運搬および移動用だったようだが、1950年代にはモータリゼーションの普及によってエンジンで動く機械の馬に変わってしまった。

 

いまさら、100年くらい前に戻れといっても無理なのだろう。

 

それでも、ひとりでも多くの人が乗馬に興味を持って乗馬をするようになれば、乗馬クラブが少しは儲かるようになって、引退馬の嫁ぎ先も増えるには違いない。

 

昨日も、お正月にうちのクラブに居た1頭の養老馬が28歳でこの世を去ったが、あのように天寿を全うできる馬が僅かであることを考えると胸が痛む。

 

走る為に生まれてきた馬は、走れなければ生きてはいけない運命だが、まだ走れるにも関わらず処分される馬が沢山居るということは知っておいてほしい。

 

馬の寿命が30年くらいだとして、人間の寿命はその3倍の90年くらいあるが、人間は馬ほど走り続けてはいない。

 

人間は、走れなくなっても廃棄処分になることはないが、馬は走れなくなったらもう終わりなのだ。

 

私は去年61になったが、還暦プラス1歳と考えている。

 

この午年を機に、残りの人生長くて30年というものを、馬の30年と同じように考えて、走れなくなったら殺処分で餌にしかならないと考えて生きていこうかと思う。

 

今年は、自分はいつまで走れるのか?この先30年をどう駆け抜けるか?について馬と共に駆けながら考えてみたいと思う。

 

 

乃木坂46 ライブ衣装でパフォーマンス

 

今後の日本固有の文化たる「アイドル」はどうあるべきか?ということについて考えていた。

 

還暦を過ぎた私はもうアイドルを求めてはいないが、海外のラグジュアリーブランドから離れつつあるZ世代が今日本でメジャーと言われる「坂道グループ」から離れつつあるというのは、アイドルビジネス的には危機に違いない。

 

面白い記事を見つけた。

【乃木坂46】「制服で踊るだけのお遊戯会」…“辛辣批判” に賛同多数? 「おじさんがターゲット」若者人気に陰り

 

 

一世を風靡(ふうび)した秋元康氏プロデュースの乃木坂46、櫻坂46、日向坂46といった「坂道グループ」に、若者人気における陰りを指摘する投稿がSNSで“万バズ”しています。かつては若者トレンドの牽引(けんいん)役だった彼女たちが、現在の中高生から無関心な反応を示される動画が拡散され、グループ全体の衰退論に拍車を掛けています。

 

「制服着て鼻声で踊るだけのお遊戯会グループが、現役高校生から人気なくなってきているようで安心」という辛辣(しんらつ)な引用リポストが2.8万件以上のいいねを獲得しているとのこと。

 

2025年現在、若者層、特にZ世代のアイドル人気は、坂道グループのような「清楚・王道」の大所帯アイドルから、新しい個性を放つグループへとシフトしています。若者人気の理由は、主にSNSを活用した拡散力、ビジュアルの多様性、そしてパフォーマンスのクオリティーの高さにあるようです。

 新世代アイドルとしてまず挙げられるのは、FRUITS ZIPPER。彼女たちはポップでカラフルな「KAWAII」を体現し、TikTokでの大バズりを経て急成長、Z世代のトレンドを牽引しています。

また2024年デビューのCUTIE STREETは、キュートでキャッチーな楽曲でSNSでの認知を拡大、10代女子にはナンバーワン級の人気を誇ります。さらに、サバイバル番組出身のME:Iは、K-POP風の高いダンスとボーカルの実力が強みで、グローバル志向で人気を集めています。

そして、超ときめき宣伝部は、エモーショナルなパフォーマンスとファン参加型イベントが人気で、小規模グループながらSNSで若者層を獲得しています。

 これらのグループは、坂道グループとは対照的に、SNSを主戦場としたプロモーションを展開し、若者の間で急速に認知を広げています。さらに、ME:Iに代表されるように、NewJeansやIVEといったK-POPの影響を受けた「実力派・ビジュアル重視」のスタイルが、若者にとっての新たな“王道”となりつつあります。

 

若者たちは、もはや「制服着て鼻声で踊るだけ」ではなく、圧倒的なパフォーマンスや等身大の個性をSNS上で見せてくれるアイドルに魅力を感じています。坂道グループは、既存のファン層との強固な絆を築いていますが、新しいファン、特に若者層を取り込むためには、変化し続ける時代のトレンドと、Z世代が求める「実力」と「多様な発信」を、いかに取り入れていくかが今後の大きな課題となると言えそうです。

(山嵐冬子)

 

「レコード大賞」や「紅白歌合戦」など年末年始の音楽番組に出場すらアイドルをこういう視点で見て見れば少しは楽しめるかもしれない。

 

松田聖子や中森明菜の様な、昭和のアイドルの楽曲は今の若者の間でも人気だし、たとえ彼らが死んだ後にも愛され続ける気がするが、坂道系アイドルの楽曲には残念ながらそれほどの力はない。

 

アイドルはもはや日本固有のサブカルと言ってもよく、同様なコンセプトのものは海外にはない。

 

韓国アイドルは、昭和から引き継がれたアイドルとは一線を画している。

ある意味、歌もダンスも完成度が高過ぎる。

 

Z世代の嗜好が、韓国アイドルのクオリティー基準になってくると、本来は文化的価値があった日本のアイドルは廃れてしまうだろう。

 

嗜好性の多様化には順応しなければ生き残れないだろうが、本来我々日本人が求めていたアイドルというものの姿は何だったのか?

 

今年2025年は昭和から100年を記念する年でもあったが、アイドルの存在は少なくとも後半の50年間、我々の心を何らかの形で支えてくれる存在だったに違いない。

 

日本的な感覚の可愛さの基準は、海外のものとは異なる。

 

そしてアイドルは外観的にAI生成美女並みである必要性はなく、歌やダンスの技術が天才的である必要もない。

 

アイドルはアイドルたるべくしてアイドルであり、その存在そのものがファンを魅了して癒しや励ましを与えてくれる存在であるべきである。

 

アイドルの使命が金儲けだというカラクリが、見えてしまうと萎えるが、アイドルも職業だとすれば仕方ない。

 

キャバ嬢という職業の目的が金儲けであるのと実態は変わらない。

 

人気のアイドルは金儲けができるのと、人気のキャバ嬢が金儲けできるのは何ら変わりはない。

 

しかし、アイドルにはアイドルであることによって不特定多数の人々を支えるというコアな使命があるべきであり、アイドルになりたいと思う女子たちが、その使命感によって人を救える力を身につけて成長してアイドルになっいくストーリーにこそアイドルの本質があり、誰かの企画によって立ち上げられたシリーズ型のアイドルにはその魅力はない。

 

今のところ、アイドルを支える事務所や企画を行うプロデューサーや既存メディアの力なしにはアイドルが誕生しない世の中のようだが、これだけSNSが普及した世の中でアイドルになる為に生まれてきた新世代が、自らアイドルとして目覚め、生まれ、覚醒していくという自然発生型のナチュラルアイドルの誕生を待つしかないのか。

女性が眼鏡をかけている

 

「愛する」とはどういうことなのか?

 

今年、「私には愛というものは無い」と言いきる同年代の友人の言葉を聞いて少し衝撃を受けたが、正直なところ「愛」とは何か?という概念が自分の中でも希薄であることに気付かされた。

 

これは、あくまで男性目線の感じ方であり、男女間でも愛という概念の捉え方は明確ではないにしろ異なる気はする。

そして、男性から見れば女性にとっての愛の概念の方が重要かつ具体的であるように思える。

 

彼女や奥さんから、「私のこと、今でも愛してる?」と質問されたことはないだろうか?

 

もし無いとすれば、それは相手が愛されていると感じて満たされているか、もしくは愛されてはいないことを確信していて聞くまでもないかのどちらかだろう。

 

いずれにしても男性にとってあまり聞きたくない馬鹿げた質問の類いには違いない。

 

答えは「愛しているに決まってるじゃないか」の一択しかないからだ。

 

たとえ、質問している女性の愛の概念を理解できていなくても、そもそも愛が何かも分かっていなくてもだ。

 

「あなたはもう私を愛してはいないでしょ?」と、実はとても大切に思っている人から言われることがあれば、それはとてもショックな事だろうが、女性が男性に対してよくいう言葉だ。

 

この場合、いくら自分が大切に思っていたとしても、少なくとも相手にはその気持ちが伝わっていないということは確かだ。

 

今まで、それは男性側のコミュニケーションの問題というか、表現力不足が原因だと思っていたが、そんな簡単な話ではなさそうだ。

 

もし愛というものが相手主体の感情であるとすれば、相手の幸せを願っていればそれは伝わっていなくても愛だと言えるのかもしれないが、女性が感じる愛というものの正体は見えるようで見えない。

 

たぶん自分の事をどれだけ大切に思ってくれているかを何らかの基準で評価しているのだろうが、その評価基準がいろいろありすぎて分からなくなる。

 

「恋したことはあっても愛したことはない」というひとも多いかもしれない。

 

「恋愛」というものは恋に落ちることであり、「恋する」と「愛する」は同じ恋愛の感情表現でも重さが全く違う。

 

「恋」と「愛」は英語ではどちらもLOVEであり、「恋する」はFall in love with~で、愛するはLove~だ。

 

恋は自分主体の感情であり、愛は相手の幸せを願う相手本意の感情だとされる。

 

また、「恋」が始まりであり、それから「愛」に変化する事もあるとのことだが、恋というものが自分主体の一方的な感情だとすると、それが相手に受け入れられて、相手に受け入れられたことによって恋愛関係が始まり、そして時を経て相手をより大切に思い、その幸せを願う愛の感情へと昇華を遂げるのだろうと思うが、その確率は低いように思える。

 

しかし、相手が好きで好意を持っていなければ、その相手のことを深く知ることもなく、相手に幸せを感じてもらう事などできない。

 

いったい「愛」という人間固有の謎の概念の正体は何なのだろう?

 

ギリシャ哲学における「愛」とは、単なる感情ではなく、相手と深く結びつきながらも、相手を独立した個として尊重する関係性であり、時に自己犠牲を伴う「結合」と「分離」の弁証法として捉えられる・・・らしい。

 

具体的には、フロムのエーリッヒの言う「思いやり、責任、尊重、知識」という要素や、相手を独立した存在として尊重することが、愛を定義する上で重要だとされる・・・らしいが、さっぱり分からない。

 

「愛」には、プラトンのいう「エロース」(本質的な欲求=エッチしたい?)、アリストテレスのいう「フィリア」(友愛・同胞愛)、キリスト教的な「アガペー」(無償の愛)など、多様な概念が存在するが、これは西洋哲学や愛の宗教と呼ばれるキリスト教の影響が強く反映しており、日本人には同様の「愛」の哲学的概念はそもそも存在しないようにも思われる。

 

それでも、「愛する」ということは、「大切に思うこと」「大切にすること」であるということは漠然と分かっている。

 

日本人は、人でも動物でも物でも自然でも、基本的に何でも大切にする気質はあるように思われ、そういう意味では本来は愛に満ちあふれた民族かもしれないが、愛というのが人間間だけの感情を定義するとすれば、日本人の愛の感情は拡散し過ぎていて存在しない薄いもののように思われる。

 

愛とは、集中的に特定の異性に対して捧げられるエネルギーの様なものであり、それが独占的に捧げられていると女性が感じなければ意味をなさない。

 

好きな人や、大切に思う人との間でしか「愛」という感情が生まれないものだとすると、愛の有る無しは、まずは好きな人や大切な人がいるのかどうか?というところが原点だろう。

 

そして、そしてその愛するエネルギーの総量と、それが何に注がれているのか?というところでその人の愛が認識され評価されるということになるのだろう。

 

自分のなかの「愛」の存在を確認するためには、「あなたに大切な人はいますか?」という故山田太一さんのドラマ『ふぞろいの林檎たち』の題名のような質問に対する答えを考えなければならない。

 

大切な人とは?

 

人間が生きていく上で大切なものは沢山有るが、たとえ対象を人に絞ったとしても、大切な人というのは沢山いるだろう。

 

自分の親やパートナーや子供、友人、仕事上の付き合いのある人達。

 

もしくは推しのアイドル?

 

しかし、問題はその人が自分自身のことをどれだけ大切に思っているかであり、大切さの基準は自分が自分をどれだけ大切に思っているかによって変わってくる。

 

自分自身を認めて大切に思える人にとって、大切な人とは、具体的には以下のように自分の大切さを基準にした大切さがあるのではないだろうか?

 

自分以上に大切な人

自分と同じくらいに大切な人

自分の次に大切な人

 

これらは、自分の大切さが自分自身で認識できていないと、希薄になる。

 

自分を大切に思って自分を愛していない人は他人を愛することもできないだろう。

 

しかし、孤独を好むひとというのは、案外自分は大好きだが、他人に自分を合わせたり自分を犠牲にして他人を幸せにしたいとは思わない。

 

つまり、孤独を好むひとは、自分を愛する愛を知っていながら、他人への愛は希薄であるとも言える。

 

孤独を愛する人が、自分を愛するほどに他人を愛することができればその愛は強いものになるだろうと思うが、孤独を愛する人にとって、他人を愛することは自分への愛を犠牲にする可能性があるからだろう。

 

それでも、きっと恋はするだろう。

 

恋は一方的な「スキ」の感情だから、衝動的な自分の感情に従えば好きな人はできるだろう。

 

問題は、その好きになった人の気持ちを手に入れるためには愛という面倒くさい概念を受け入れて自分を犠牲にしなければならないということだろう。

 

愛のあるひともない人も、孤独を愛する人も、さみしがり屋の人も、取りあえず恋をすることから始めなければ何も始まらないし、たとえ恋が愛に昇華できなくても、おそらくその恋の記憶は、それが強ければ強いほど、あなた方の人生を豊かに幸せに導いてくれるに違いないと私は信じたい。

 

2012年頃ビームスの「恋をしましょう」というキャンペーンで使われていたコピーを引用させてもらう。

恋をしましょう BEAMS キャンペーン画像

 

「恋をしましょう」

 

みなさん恋をしましょう。

ふたりのの秘密を作りましょう。

ふたりに嘘をなくしましょう。

ふたりはひとりよりも温かいから。

ふたりはひとりより強いから。

ふたりで涙を流しましょう。

ふたりはすべてを笑いにできますから。

きちんとちゃんんとぶつかりましょう。

距離を超えて、言葉を超えて、そしてひとつになりましょう。

いつか空気のようになりましょう。

さあ、みなさん恋をしましょう。

そして世界を楽しみましょう。

 

「恋をしましょう」

 

みなさん恋をしましょう。

誰かを好きになりましょう。

そして自分を好きになりましょう。

みなさん恋をしましょう。

それは世界を新しくしますから。

知らなかった歌を好きになったりしますから。

ゴハンが美味しくなったりしますから。

深呼吸の意味を変えたりしますから。

それは嘘の悲しさを教えてくれますから。

たとえそれが終わっても、きっと何かを残し
てくれますから。

さあ、年齢を超えましょう。

性別を超えましょう。

国籍を超えましょう。

経験を超えましょう。
みなさん恋をしましょう。

地球は愛が救ってくれますから。

 

BEAMS

 

大市民 柳沢きみお 最終章 表紙

 

「大市民」は柳沢きみお先生の代表作の一つで、1990年に双葉社「アクションピザッツ」で連載開始され、その後も「大市民Ⅱ」「THE大市民」「大市民日記」など掲載誌とタイトルを微妙に変えながら現在第9シリーズの『大市民 がん闘病記』まで30年以上続いている長寿作品だ。

 

 

主人公の小説家、山形鐘一郎(やまがたしょういちろう)というキャラを通して柳沢きみお先生自身の社会観や趣味、生活習慣について描いたライフワーク的作品とされている。

 

そして今年2025年に「大市民がん闘病記」の連載がビッグコミックオリジナルで始まったが、流石にこれが最後と思われる。

 

これもまた、現在76歳の作者が自身の体験を元に書いているようで、意図せず大腸がんと診断された主人公の闘病過程がリアルに描かれており、15年先の自分の未来と重なり身につまされる。

 

 

この『がん闘病記』をビッグコミックオリジナルで読み始めたのをきっかけに、まだ読んでいなかった30年前の「大市民」シリーズを読み始めたのだが、共感を感じると同時に衝撃を受けた。

 

自分の過去30年を振り返ってみると、かつての自分の生き方が如何に馬鹿げていたかも思い知らされるし、30年の月日を無駄に費やしてようやく自分も大市民病になっていたことが分かるからだ。

 

私がこの『Mr.Gの気まぐれ投資コラム』を書き始めたのが16年前の2009年の5月なのだが、当時の私はまだ45歳であり、ちょうど『大市民』第1シリーズの主人公と同じ年齢とだったことになる。

 

ここで描かれる大市民は、孤独で孤高な存在だ。

 

世の中に対して言いたい放題で、全体的には批判に満ちている作品だが、30年前を振り返ってみるともっともな感想だったとも思える。

 

世のおじさんやジジイというのは、60歳を超えて完全にリタイアした後にしか完全な自由を手に入れることはできず、会社や家族とのしがらみの中で、窮屈な人生を送っているが、リタイア後にいきなり自由や孤独を楽しめと言われてもなかなかそうは行かないっものだ。

 

作中には、バブル期には豪遊していたが破綻した経営者や心を病む会社員、宗教にハマる女子大生など、生き方に迷い躓いてしまった様々な登場人物が主人公の山形に絡んでくる。

 

そんな迷える隣人達との交流を軸に物語は進行していく。

 

1990年に連載が始まった「大市民」の第1シリーズで登場する主人公の山形鐘一郎の設定は、柳沢先生と同年齢の45歳となっており、それから35年間に渡って作者が加齢と共に感じてきたことや体験してきたことが綴られている壮大な自叙伝的作品となっており、日々主人公が感じてきた世の中に対する不満や文句を延々とグダグダ綴り続けているため、老害漫画とも言われる作品だが、作家という自由な立場の主人公は経営者や会社員といった普通の人達とは設定が異なり、孤独を愛するが故に自由であり、好きなこともできるし、好きなことも言える立場ではある。

 

こんなジジイがあちこちにいたらそれこそ老害以外の何ものでもないが、たったひとりの山形のぼやきは、自由のない一般の人にとってはある意味すがすがしい。

 

作者がまだ40代の後半だった第1シリーズ(90年代)の時から、主人公の山形は既に厭世的な人生を歩んでおり、設定が小説家で自由人というのもあるが、当時においても普通ではない悟った生き方だったと思われる。

 

現在の40代後半は、当時は10代だった世代であり、もっと若い感じもするし、45歳で既に老成している山形には違和感を感じるだろう。

 

もちろん、私が40代だったときとも感じ方は異なるし、今でもそうだがその頃の私は、自分の若さに慢心していた気がする。

 

なので今の50代以下の(若い)オヤジが読んでも、ただ理屈っぽく文句ばかり言っていてあまり面白くはないかもしれない。

 

ただ、30年前に山形が散々批判していた20代の若者が、今は50代になっていると考えれば、『大市民』で書かれていた未来が実際にはどうなっていたかを確認する事はできるだろう。

 

この『大市民』シリーズは以下のような時系列と作者及び主人公の年齢において相当な作品数があり、実際にこれを読破するのは容易ではない。

 

『大市民』第1シリーズ 10巻 1990~1995年 45歳~50歳

『大市民Ⅱ』第2シリーズ 2巻 1996~1997年 50歳~

『THE大市民』第3シリーズ 5巻 2002~2004年 57歳~59歳

『大市民日記』第4シリーズ 6巻 2005~2009年 60歳~64歳

『大市民語録』第5シリーズ 5話のみ(大市民日記3、4巻に収録)2007年

『THE大絶叫市民』第6シリーズ 漫画はなく文章のみ 2010~2018年

『大市民 最終章』第7シリーズ 1巻 2015年 70歳

『終活人生論 大市民挽歌』第8シリーズ 電子書籍のみ 2016~2018年 71歳~73歳

『大市民 がん闘病記』第9シリーズ 2025年~ 76歳~

 

山形が50代の頃の『THE 大市民』では、「今の日本は嘘くささで充満している。バカがついに主導権を握ったからだ!」などと吠えていたものだ。

 

大市民 漫画の登場人物たちの会話

 

しかし、時代が変わっていってもその生き方に対するこだわり軸はぶれず、この先の自分の人生を如何に楽しめむかということを日々考え続けて生きている。

 

そして、幸せに生きる為に必要なのはお金だけではないということを50前にして既に悟っている。

 

また、山形の30年前からのぼやきは、それが直接的な原因ではなかったしろ、実際に衰退した今の日本の姿を予見していたとも言える。

 

「経済力はあっても、稼いだお金を自分の幸せの為に有効に使う文化力が欠如している」というのが、日本人と日本を暗くしてしまった原因であると豪語している。

 

「大市民」より、役人への批判や経済論 | 柳沢きみお

 

まあ、外していることも多いのだが、「中国の経済力が日本を追い越す」という未来は見えていなかった。

 

第三シリーズの『THE大市民』ではまだ50代だったせいもあり、豪快に結構暴れまくっていてワイルドな老害オヤジだったが、60代になってくると流石に元気がなくなってくる。

 

山形は、毎日の腕立て伏せ、屈伸運動、柔軟、逆立ち、水泳など、運動を欠かさず逞しい肉体を維持しており、独自の健康概念を持っており、一般的な医療や健康法に関しては懐疑的、ビールをこよなく愛している。

 

ビールを如何に美味しく飲むか?という事に関して、これほど独自の感性で突き詰めた作品は珍しい。

 

山形が毛嫌いする喫煙者である私は、ビールが健康に良くないということを分かっていて飲んでいるが、これくらい毎回気持ちよくビールを飲んでいる主人公を見ていると、自分ももっとビールを楽しみたいとう気持ちになってくる。

 

食に関してもうるさいが、特に鮨に関するこだわりは強い。

 

第一シリーズでは食に関する内容が多い。そして毎回ビールを飲んでは「美味し!!」の合い言葉で締める。

 

鮨以外にも、ラーメン、冷やし中華、鍋焼きうどん、とんかつなど、数々のこだわりが披露されると共に、マズい店やマナーの悪い客に対する辛辣な批判も多い。

 

昔から山形の美学的にはどうしても許せないことというのがあり、たとえば若い男女の茶髪とか、上げ底の靴とか、公衆の場所でケータイで話すケータイ野郎とか、ポイ捨て野郎とか、ゴールドチェーン野郎とか、ビトンずくし野郎とか、毛皮野郎とか、ベンツとか、昼間にライトを点灯しているバイクとか、日本人の品ない野球の応援の仕方とか、霊やUFOが見えるという霊能力者とか、数え上げればキリが無いほど気に入らないことが沢山ある。

 

しかし、反面ビールや食い物を筆頭に、コレさえあれば幸せと思える好きなものも沢山持っている。

要は、自分の好きなものに対する思い入れが強すぎて排他的なのだ。

 

愛車はトライアンフ・TR-3、ACエース・ブリストル、アストンマーティン・DB5、オースチン・ヒーレー・スプライト、フェラーリ・330GTCとクラシックスポーツカーを乗り継ぐ。BMWのオートバイR51/3も持っている。

 

パソコンや携帯は使わないアナログ主義で、アコースティックギターをこよなく愛している。

 

相当なこだわりだが、食に関してはどう考えても健康を考えたら食べ過ぎ飲み過ぎだろうと思える。

 

『がん闘病記』では、それが実際に大腸がんの原因になったかどうかは分からないが、「冷えたビールやワインを好んで飲んでいた事に起因するのではないか?」という山形のコメントもある。

 

それでも、75歳になって大腸がんを患うまでの30年間、毎日飲むこととと食べることで「美味し!!」の幸せを味わうことができたのであれば、それはとても幸せな事だったと思われる。

 

山形の住んでいる安アパートには、結果として多くのダメ人間たちが入り浸るが、基本的に山形は孤独を愛しており、ひとりで楽しめる人生を歩んでいる。

 

設定では、4人の妻と11人の認知済みの子供達がおり、その為安アパートでの貧乏生活を送っていることになっているが、元妻も子供達も一切出てこない。

 

歳を取るほどに、煩わしいことは多くなってくるが、主にそれらは家族関係や、友人関係という人間関係から発生するものだろう。

 

この「大市民」シリーズでは、純粋に作者の人生観というものにフォーカスするために、そのような生活感を最初から切り離しているのかもしれない。

 

この物語の主人公は、まだ生きているが、孤独に人生を楽しんで生き、死んでいく設定の物語なのだ。

 

「人生の楽しみ方」としてこのシリーズで指南されていることは、基本的に「孤独を楽しめないひと」向けではなく、さみしがり屋で孤独が耐えられない人にとって人生を楽しむことは難しいと感じさせる。

 

恋愛や結婚に関しては、どうしても孤独を楽しめないひとの「幸福」の選択肢であると書かれている。

 

『大市民 最終章』くらいになってくると、もはや死ぬことをどう楽しむか?という哲学的な境地にまでたどり着くが、山形の美学的には自殺がもっともキレイな死に方であるという自殺推奨の方向性まで示唆される。

 

「冬山に登ってそこで凍死する」のがもっともキレイな死に方ではないか?というのはそうかもしれないと思えたりする。

 

確かに、この先20年経てば、私も80歳だが、今の80歳が100歳になっても元気で日本中でゾンビのように溢れかえっていたら大変なことになるだろう。

 

今でもそうだが、この先はもっと老人だらけになる。そして溢れかえる老人たちによって経済は食い潰され、世の中の活気はもっと失せ、若者達には夢も希望もなくなる時代がやってくるかもしれない。

 

そんなお荷物になるくらいなら、簡単に自死できる薬か医療的な安楽死のような選択肢があれば、その方が良いのではないかと思えなくはない。

 

その場合は、歯医者や大腸内視鏡検査の時に気持ちよく眠らせてくれる「プロポフォール」の過剰投与による安楽死が私の希望だ。

 

いくら健康に生きていたとしても、85歳くらいが自分が生きていることを楽しめる限界年齢ではないだろうか?

 

私の母は、95歳だが、85歳まではクルマも運転していたし元気だったが、たった10年で今はほぼ寝たきりでボケてしまって私の事ももう分からない。

 

今年になって介護施設に入居したおかげで、崩壊しかかっていた在宅介護から24時間体制の介護が受けられる状況にはなったが、記憶の殆どがなくなってしまった母が、今の自分が生きていて幸せなのかどうかは正直分からない。

 

人生のゴールが、今の母のような状態であると思うと切なくなる。

 

日本中の介護施設は、今ですらそのような状態の老人で溢れており、介護保険と医療保険に支えられてかろうじて回っているようだが、これ以上介護の必要な老人が増えていったらどうなるのかを考えただけでも地獄絵図が浮かぶ。

 

そして、少なくともこの先30年以内には自分もその仲間入りすると考えた時に、この先残された20年くらいをどう生きて、どう死ぬべきかを考えざるを得ない。

 

この柳沢きみお先生の『大市民』シリーズは、著者の体験を通して著者の分身たる山形が45歳から76歳の今に至るまでの年齢と共に徐々に変化していく人生観や死生観を、世の中の風潮を辛辣に批判しながら楽しんで生きていく様を描いており、「人生は楽しむためにある」という事を30年間言い続けている名著だと言える。

 

私個人的には孤独に耐えられないタチなので、山形のようには生きられないと思うが、毎日の酒や食事をもっと楽しむべきだと思うし、日本の美しい四季や文化を味わい、クルマやバイクなどの趣味を楽しむべきだとは感じた。

 

どうか山形が、大腸がんの危機を乗り越えて、この先も人生を楽しんでいって欲しいと願うばかりだ。

赤いドレスの女性、G7ロゴ、ダガー

 

台湾有事をめぐる高市首相の発言から、日中関係が悪化している。

 

・・・というか中国は日本の揚げ足を取るチャンスを有効に生かしていて、そういった日本に対する嫌がらせ的な中国政府の行動に対して日本国民が過剰に反応して反中意識が加速しているといった感じだろうか?

 

もし台湾海峡で有事が発生したなら、日本にとって存立危機事態になりうるというのは事実に違いない。

 

高市首相は、「やはり、戦艦を使って武力の行使も伴うものであれば『存立危機事態』になりうるケースであると、私は考えます」とはっきり答弁した。

 

あくまで、「もし」という前提で事実を述べたことには違いないが、それがなぜこのように大きな波紋を呼ぶことになったのだろう?

 

この「存立危機事態」という専門用語がいつどのような背景で設定された、どのような意味を持つ言葉なのかを理解しなければ中国の過剰反応は謎だろう。

 

2014年7月閣議決定で、集団的自衛権行使の前提条件として新3要件が示されたうちのひとつが「存立危機事態」である。

 

「存立危機事態」とは、「密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」ことを意味し、これをうけて安保法案は、明白な危険がある「存立危機事態」に集団的自衛権を行使できると定めている。

 

つまり、あくまで可能性だが、「存立危機事態」と政府が認識する事態が発生した場合、集団的自衛権が行使されることになる。

 

もし「台湾有事」が発生したら?→「存立危機事態」と政府が認識=「集団的自衛権発動による限定的な武力の行使」=日本が他国の紛争に軍事的に参加する。 → 日本が戦争に巻き込まれる・・・というヤバいレベルの事を高市首相はあまりにも容易く述べすぎている。

 

また「台湾有事」という短い言葉で表現される有事の意味する範囲が曖昧なのも気になる、今回高市首相は、「戦艦を使って武力の行使も伴うもの」という具体的な表現を用いているので、戦艦が出てこないような形態の有事であれば状況は異なるということになる。

 

そもそも、いまは世界に存在しない「戦艦」という用語を使っているだけで軍事的な知識の無さも指摘されている。

 

具体的に、台湾と中国の有事的な紛争が起った場合に、日本はすぐにそれを存立危機事態として集団的自衛権を発動することはありえない。

 

国連憲章第51条において、集団的自衛権の発動は「国連加盟国に対する武力攻撃が発生した場合」としているが、、日本は台湾(中華民国)を国として認めておらず、台湾は国連加盟国でもない。

 

もし、そういう事態が発せするとしたら、「米国が軍事介入して、同盟国である米国が中国の攻撃を受けた場合」しか考えられない。

 

そもそも、中国が軍事的に台湾を制圧するとか侵攻するというような可能性は極めて低い。

 

なぜなら、1つの中国を目指す中国の方針はあくまで「平和統一」であり、その必要が無いからだ。

 

ただ、アメリカがCIAを動かして、ロシアのウクライナ侵攻のような「代理戦争モデル」を利用して台湾の独立を扇動した場合には、話は変わってくるかもしれない。

 

いずれにしても、中国側に現状の中台関係において軍事的な侵攻や台湾海峡の封鎖の必要性は無いように思われる。

 

そういう前提を超越して、日本の首相が、「台湾有事」=「存立危機事態」=「集団的自衛権の発動」という発言をしたことに関して中国が噛むみつくのも無理はない。

 

そして、その噛みつかれた日本の国民が、これまた短絡的に今まで溜まっていた反中のエネルギーを無駄に爆発させるのも大人げない。

 

報道の片寄りも気になるが、SNS上での反中ポストと親中ポストのせめぎ合い、そこに香港人や台湾人が自分たちは中国人ではないので一緒にしないでくれ的なコメントが入り交じり混沌としている。

 

中国外務省は中国人民に対して、日本への渡航を控えるよう通達を出しており、中国人の日本への渡航は減っているようにも見えるが、実際にどれくらい人民に対してその通達が理解されているのかは疑わしい。

 

多くの日本人は、中国人の観光客が減った事に関して喜んでいるようだが、大阪万博が終わった今でも外国人の観光客は溢れかえっており、過剰インバウンド客の問題はもはや中国人だけではない感じがする。

 

多くの日本人にとって、中国人と香港人、台湾人、シンガポール人の区別は付かないだろうが、それはキチンと認識してあげる必要がある。

 

そうでなければ、「台湾有事」なるものの本質も、香港で2019年に起った自由派デモ隊と警察の衝突も、形態としては国境もあり独立した国家として存在している香港や台湾やマカオといった国の置かれている立場や状況も理解はできないだろう。

 

確かに、中国からしていれば、そんなことも理解できない見てくれは単一民族国家だが実はそうでもない日本のような小国が口を挟むなというところだろう。

 

まさに高市さんは都合良く虎の尾を踏んだようなものだ。

 

この10年くらいの間ずっと感じていたが、今回の日本人の反応を見て改めて日本国民のバカさ加減が露呈したように思われる。

 

今回の「高市発言」を受けて、過剰に反応しているかのように見える中国政府の態度は、まるで肩がぶつかって謝らない一般市民を恫喝するヤクザのようでもあり、それに対して日本人の多くは、そんな中国人は日本に来て欲しくもないし、住んで欲しくもないし、出て行って欲しいと考えるひとが多いようだが、日本がいかに美しく日本人が如何礼儀正しい民族だったとしても、その日本人が住む日本という国は、今や世界のメインプレーヤーではなく、蚊帳の外に置かれていることを認識しなければならない。

 

日本は80年前の太平洋戦争における敗戦国であり、方やアメリカと中国は戦勝国という立場で、戦後の日本はかろうじて植民地化を逃れ、アメリカ合衆国の軍事的保護の元にぬくぬくと経済的復興を遂げ、戦後50年くらいの間に見事に「アメリカかぶれ」が浸透した。

 

その「アメリカかぶれ」によって手にした資本主義的な豊かさ引き換えに、日本は古来からの日本の文化や技術といった本当に価値のあったものを失ってきた。

 

日本が経済的な成長力を失ってきた過去30年のあいだに、中国という国は成長を続け、経済的にほぼ失った物はない。

 

世は、それがバブルだと言い、いつかは日本が経験したようにそれが破綻すると信じているが、なかなか崩壊しない。アメリカの経済にしても、株価など数字で見る限りは成長を続けてるかのように見える。

 

アメリカと中国という2つの大国間のせめぎ合いの中で、アメリカ番長の子分でしかない日本が、偉そうな口を叩くことが許されるような状況ではないのだ。

 

日本政府も、国民も身の程をわきまえなければならない。

 

今や中国は、我々が認識しているような貧しい国ではない。知識、情報、カネ、技術、全てにおいて日本が張り合える要素はほぼ無い。

 

中国の主要都市の夜景と昼景

日本を愛する日本人としては残念なことだが、これは事実であり、国際社会における日本の政治的発言力は、特に軍事的な分野においては存在しないに等しい。

 

ましてや、それが、他国における複雑で深い政治的事情が関与することであれば尚更だ。

 

一国の首相の発言内容が他国に誤解を生むような場合、謝る必要はないかもしれないが、本来は対話によって解決しなければならないところだろう。

 

そして、それは政治家の仕事であって、今の政治家のもっとも重要な案件は国内の経済対策であることは間違いない。

 

そういう政治家の範疇であるはずの国交のボタンの掛け違いに、国民が踊らされて意味の無い議論にエネルギーを費やすべきでない。

 

そのことによって、より日本人のバカさ加減が世界に露呈し、それが日本の経済に更なる悪影響を及ぼすだけだ。

黒革スーツの女性と黒いスポーツカー

 

クマ退治が縦割り行政の弊害で実は大変だというところから、「もし人でない何かに人間が襲われるとしたら、誰が助けてくれるのだろう?」という妄想を膨らませてみた。

クマ対策にみる日本の治安と安全 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

 

つくづく最近は、人間の生命を脅かす敵となる存在が多様化していることに気付かされるが、それは主に人間を媒介としている。

 

例えば、薬物によってゾンビ化した人間に襲われる場合、薬物が原因だが人間が襲っている。

 

自動運転や自動ブレーキの機能を備えた安全なはずの自動車が暴走して人を轢き殺してしまう場合は、それが機械の暴走であってもやはり運転手が責任を負う。

 

人ではない何か?

 

クマのような猛獣以外にも、例えばネズミが大量発生したら?とか、ゴキブリとか虫が大量発生したら?とか色々可能性はあるが、動物や昆虫など生き物ある限りは管轄は環境省や農林水産省となるのだろう。

 

未知のウイルスや病原菌といったものであれば、厚生労働省の管轄ということになるが、これがどれだけお粗末な結果となったかについては「コロナウイルスによるパンデミック」にて経験済みだ。

 

もちろん、人間にとって今のところ同じ人間を超えるほどの脅威は存在しない。

 

なので、通常は対人間の治安維持部隊である警察か軍隊が、国や地方自治体単位で市民の安全を守っている。

 

地震や台風や津波など、自然災害については、援助や被害からの復興活動に自衛隊が出動することが一般的だが、これも自然が人類に敵対するとしても、その自然を敵と見做して攻撃するものではない。

 

人間が人間のために作り出したものではあるが、原発もそういう意味では取り扱いの難しいアイテムだ。

 

人間ではない、人間にとって脅威となる何か?

 

排除しなければ、多くの人間が死ぬ可能性がある人間ではない何か?

 

まぁ、色々考え得るが、例えば以下のような歴史上はちゃんと人類の敵として出現したことのないUMA的なものを想像してみればよい。

 

エイリアン(地球外生命体)

 

怪獣(未知の生命体)

 

霊体(お化け?幽霊?)

 

元は人間だったゾンビとかはどうなるのだろう?

 

しかし、今現実に差し迫っている目に見えない人類の脅威となり得る存在は、AIかもしれない。

 

薄い脅威レベルで、人間がAIと協調して生きていく未来に関しては、人間側がAIに自ら歩み寄って理解しようとすることで、機械と人間の協調が成り立つ可能性が無いとは言えない。

 

それについては、以下の記事において「AIに媚びを売って生き残る」という意見も述べた。

AI時代に生き残る為には、AIに気に入られる生き方が必要だとMr.Gは言っている。 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

 

しかし、自ら意思を持った機械であるAIが、人間という存在をどう捉えるか?は未知数であり、例えば地球という星やそこに存在する全ての生物の立場を超越して人間側に立ってくれるかどうかは疑わしい。

 

それは手塚治虫先生も藤子不二雄先生も、昔からいくつかの作中で示唆している。

 

もし、AIが人類の敵に回って、人類を排除しようと地球上のありとあらゆる人間の生活を支えるシステムに介入して無効化するような事態が発生した場合、現状我々人類はなすすべがない。

 

そしてその場合、グロバールな人類の危機となり、国家レベルの危機では済まない。

 

それに対抗する手段は、AIに依存せず、ネットワークから切り離された、完全にスタンドアローンのシステムと、アナログ技術しか無いだろうが、その対抗手段が絶滅しつつあるのは心細い。

 

アニメ『ヨルムンガンド』でココが最終的に「強制的世界平和」を実現するために企てた「ヨルムンガンド計画」のような技術的に世界のネットワークを全て掌握することで戦争の無い世界を作るという発想が、AIが将来たどり着きそうな発想ではあるが、もしそうであれば、その方が人類にとっては幸せなのかもしれない。

 

ただ、もし『マトリックス』や『ターミネーター』のような世界観であれば、人類はAIやAIによって作り出された世界とアナログな技術で戦い続けるか?もしくはネットワークのない世界に逃げ込んで生き延びようとするのか?

 

今の時代に個々ができることは、ネットワークのないアナログな世界を自分の脳の中に持ち続けることくらいだろう。

 

頭脳的に人間はAIには敵わない。そしてAIの持ち味であるネットワーク化の中で殆どの人類の脳がこの先10年くらいの間には毒されて洗脳されてしまうだろうから、数の正義においても人間の脳を媒介としてAIの思考が間接的にこの世を支配する可能性が高い。

 

このトレンドは、おそらく変わることがなく、そこから逃れて生き残れる人は少数派となるだろう。

 

それでも、もし、AIと敵対して生き残りたい人が手にするべき武器は、動物と同等な生存本能とアナログ技術と、自分に絶対服従してくれるパーソナルでネットワークに接続されていないスタンドアローンAIかもしれない。

ドル円レートと為替変動のグラフ

為替は魔物だ。

 

今1ドル=150円を超え、160円に近づくようなドル円レートだが、この為替レートは日々毎秒変動し、この先もっと円安が進むのか円高に戻るのか?明日どうなるかも予想することは難しい。

 

160円に近づくと、政府の為替介入も有り得るが、口先介入だけでも数円は動く。

実際に介入したとしても、その効果は今や極めて短期的だと考えられる。

 

為替に関しては、日々の変動に右往左往するのではなく、10年くらい先まで見据えた長期的な展望が必要だろう。

 

ただ、この日本においては、現状のように円安が進んでも、これ以上の円安になるかもしれない恐怖を国民はあまり感じていないようだ。

 

20年前も感じていなかったし、10年前も感じていなかったし、今も感じていない。

 

敢えて言うなら、過去を振り返って、1ドル=100円くらいの円安の時にドルに替えておけば良かったとか、平均すれば1ドル=100円よりも円高でオフショア積立を利用してUSドル建で海外への資金移転をしていた人が、1ドル=120円~130円くらいで解約して利益確定してしまったことを悔やむくらいだろう。

 

今年は、結局平均すれば1ドル=145円くらいを中心にプラスマイナス5円くらいの幅で変動していた感じだが、結果からみれば4月の1ドル=140円がいちばんの円高タイミングで、もし円資産をまとめてUSドルに替えて海外に移転するとしてらその時がベストだったと言えるだろう。

 

しかし、それは一瞬のタイミングでしかなく、その時にはもっと円高に振れるのではないか?と思った人が大半だったに違いない。

 

今年も多くの方々に、日本円の預金(タンス預金も含めて)は早い内に海外に持ち出してUSドル建の運用型保険証券に代えておいた方がいいと勧めてきたが、1ドル=140円程度の(今から考えれば円高?)でも躊躇する人が多かったように思う。

 

結果としては、1,000兆円もある日本円の現預金は、殆ど新たに海外には移転されなかった感が強い。

これも、それほど円安が急激には進まなかった要因のひとつだということは以前に話した通りだが、日本人の円信仰の強さには今更ながら驚かされる。

 

10年以上フレンズプロビデントやRL360などオフショア積立をドル建でやってきた人達にとっては、今回の円安進行はバリューを円換算すれば利益確定のチャンスにも思えて解約を促進するし、毎月の積立が円換算で負担が大きくなって停止や減額する人も増える。

 

しかし、1ドル=150円(今は160円に近づいているが)くらいで動揺するべきではない。

 

現実に1ドル=150円でも、アメリカと比べればそこら中に浮浪者や乞食が居るような状況にはなっていない。

 

今年は、オフショア積立も10年以上コツコツと停止も減額もせずに続けて来た人が、解約をしてUSドルのままサンライフのサンジョイやロイヤルフォーチュンに一括で乗り換えるケースは多かったようだが、これについては、折角がんばって続けて来た積立投資ではあるが、このご時世では仕方ないというか、解約して日本でNISAをするとか、日本で外貨預金に眠らすとかと比べれば、遙かにマシな判断であると思う。

 

日本でも、金利の良いUSドル定期預金やUSドル建の保険商品が売れる時代になったが、ホンモノ賢い海外投資家は、日本国内で外貨建ての投資などしない。

 

外貨建てどころか、日本国内では限りなく一切投資をしないし、日本の銀行にも極力お金を寝かさない。

 

ただ、そういう変人は本当に僅かしかいないので、巷の投資アドバイザーに普通相談をしても海外に資産を移転しなさいというアドバイスを受けることはあり得ないだろう。

 

しかも、それがHSBCやサンライフなど香港の金融機関を利用してということになると、昨今の日中関係の悪化考えれば不安要素しかない。

 

自分の住む、そして絶対に潰れないと信仰する日本の金融機関に、いずれは絶対に円高になる世界最強(最恐)と信じる日本円で持っているのがいちばん安心であると多くの人が考えがちだ。

 

折りしも、ジャンヌダルクならぬ初の女性首相がその国のリーダーとなり、相変わらずアメリカにはしっぽを振らざるをえないものの、国の為に真っ向から外国勢に立ち向かってくれるかのような期待感もあり、「きっと国がなんとかしてくれるに違いない」という根拠のない期待と、自分たちの愚行の結果を国の責任として片付けたいという無責任な国民(信者)によって危険なレベルのポピュリズムが形成されているように思える。

 

オルカンやS&P500インデックスなど元々は外貨建ての海外ETFをNISAのプラットフォームを利用して投資しているひとはそこら中に居るが、それよりも海外の投資プラットフォームや海外の保険会社のドル建商品か海外の証券会社で直接ドル建で投資した方が良いということは伝わりにくい。

 

それはやはり、日本に住んでおられる方々は、日本円という通貨に対する信仰度合いが高すぎるからだろう。

 

日本国内で外貨建ての投資商品を買っても、海外で同じ外貨建て商品を買っても、理論上は同じように思えるが、為替の変動によっては結果は変わってくる。

 

例えば、5年前の2020年にS&P500は3,000ドルで今は6,000ドルと5年で倍になっているが、2020年は1ドル=110円台で今は150円台なので、もし日本で10年前にS&P500のETFを買って今まで持っていた人がいれば、買い付け時は3,000ドルx110円=330,000円で買っていたはず。そして今は6,000ドルx150円=900,000円と解約して円で受け取れば3倍になっているはずだ。

 

実際にeMAXIS Slim米国株式(S&P500)の円建て価格を見てみると、2020年には12,000円程度だったのが、2025には38,000円と3倍以上になっているので、これは為替をちゃんと反映しているように見える。

 

積立で買っている場合にはドルコスト平均法が適用されるが、年々価格が上がり続けるものを買っている場合にはその効果は裏目に出る。

 

eMAXIS Slimの過去5年間の円建て平均利回りは24%となっているので、5年間つみたてNISAでeMAXIS Slimをやっていた人は、計算上140%くらいになっている筈だが、おそらく現実にはそこまで行ってないのではないだろうか?

 

為替ヘッジ手数料など見えない手数料が発生している可能性があるからだ。

 

つみたてNISAはいつ解約してもペナルティー手数料はないので、もし5年以内でも140%とかなら解約すれば良いと思う。

 

ただ、40%プラスだとしても、5年前の為替と比べれば円の価値は40%くらい下がっているので、今円建てでプラス40%の利益を確定してもなんだか得した気にはなれない。

 

問題は、徐々に弱まっていく通貨で投資をしていても、何年か先に最終的に戻ってくる通貨がその弱い通貨であるというところに根本的な問題がある。

 

「弱い通貨で投資をすべきではない」という理由はそこにあり、今はそこまで考えなければならない。

 

一方、オフショア積立の場合には、フレンズプロビデント、RL360など、ITA、いずれも早期解約手数料が積立契約期間の残存年数に応じて発生するので、早期解約は得とは言えないが、解約すればUSドルでカネは戻ってくる。

 

資産をドル建で、物理的に海外に移転するメリットは、強い通貨(今であればUSドルやユーロ)で直接海外でファンドや運用型保険商品に投資できるというtころにある。

投資通貨も外貨、運用も外貨、解約時に受け取るのも外貨となり、非常に分かりやすい。

 

日本円というカルト通貨のマジックは、まるで金やダイヤモンドの価値が絶対であるという妄想と同様に、日本人の殆どがその価値を信仰しているためかろうじてその価値が維持されている。

 

神が存在すると信じている人にとって、神は存在し、そんなものは存在しないと思っている人に神は存在しない。

 

神の国日本の、カルト通貨である日本円の価値も、その信仰がある間は維持されるだろうが、それがUSドルであれ、ユーロであれ、日本円であれ、通貨というものに絶対的な価値など存在しない。

 

それぞれの国がその価値を保証している紙きれに過ぎない。

 

かつてはUSドルですら、金本位制で金との兌換性によって価値を担保していたが、いまはそのような価値を担保するものは無い。

 

2025年通貨別取引額シェア、米ドル44.6%

ただUSドルは、世界で今のところ取引に使用される通貨の44.6%を占める基軸通貨であり、それを超える流動性や相対的価値を持つ通貨は他に見当たらない。

 

しかし、まだ固定相場制だった1944~1971年のブレトンウッズ体制の時、金1オンス=35ドルで固定されており、1ドルは360円固定だったのだが、今は金1オンス=4,000ドルと100倍以上になっていることを考えると、それだけインフレが進んだ(通貨の価値が下がった)と言える。

 

戦前戦中までは、英国ポンドが基軸通貨だったそうだが、戦後USドルが基軸通貨になってから80年が経つことになる。

 

戦後英国ポンドからUSドルに変わったように、今後基軸通貨がUSドルから別の通貨に変わる可能性が無いとは言えない。

 

数十年先には、案外中国人民元か、あるいはそれと連動したデジタル通貨が基軸通貨になっていたりするかもしれない。

 

残念ながら、日本円が基軸通貨になることは考えにくい。

 

そのUSドルですら、今はインフレによって物の値段に対する相対的価値は低下しており、それはつまり世界の全ての通貨の価値が下落していることを意味する。

 

これは資本主義経済が成長していく過程で、各国がお金を刷りすぎているからに他ならない。

 

世界はお金を発行し続け、しかも実際に存在する事になっているお金の何倍ものお金が世界で流通し、そしてその価値を徐々に落としていくという流れは経済成長を求め続ける限り変えられない。

 

東日本大震災により日本が国難に陥った2011年には、不思議にも円高が進行し、1995年4月に記録した1ドル=79円75銭を更新し、同年の10月に1ドル=75円32銭という史上最高値をつけたのが歴史上の最高値で、それはちょうど今の倍の円高だったのだ。

 

要因はギリシャに端を発した欧州の債務危機に伴ってユーロが売られたことにあったとされる。

 

この頃、通貨の価値は「不美人コンテスト」によって決まるという表現が流行ったが、全ての通貨はインフレと共に価値が下がっていくとすれば全ての通貨は美人ではなく、ブス(不美人)であると言える。

 

どの国の通貨がどれだけブスかを決めるブス選手権の中で、いちばんマシなブスが今のところUSドルだということになるのかもしれない。

 

お金に支配されたこの資本主義経済の世の中で、お金には絶対的な価値があると信じているのは、それ自体が宗教のようなものだが、それから解脱することは難しい。

 

今週は、1ドル=155円を超える円安か進んだが、我々の感覚は既に1ドル=145円くらいで慣らされてきている。

 

5年前も、10年前も、15年前も、20年前も、たかが数円の円安が進む度に、円高サイドを警戒してきた日本だが、世界のインフレを加味した実質実効為替レート(Real Effective Exchange Rate)でみれば、今の円安は1ドル=360円の固定相場制だった1970年並の円安に相当する。

日米一人当たりGDPと実質実効為替レート・米ドル円レートの推移

ただ、これはアメリカを筆頭に世界の先進国でインフレが進む中、過去30年間日本の円建て物価がインフレどころかデフレだったからであり、このギャップが一気に埋まろうとするインフレ圧力によって、円安は更に進行するおそれがある。

 

2025年8月末までの10年間で見れば日本の実質実効為替レートの騰落率は主要先進国の間では最も下げ幅が大きく、主要な新興国と比較しても、この間、名目実効為替レートが急落したアルゼンチンやトルコに次ぐ下落となっている。

 

恐るるべきは、為替ではなくインフレなのだ。

このことに警鐘を鳴らしていた2年前の記事を最後に残しておきたい。

円安よりインフレを警戒すべきだろう | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

クマ駆除任務のライフル銃

 

毎日のようにクマに襲われる事件の報道が続いており、今月には被害総数100件以上、クマに襲われて死亡した事件が13件にのぼっている。

 

主なクマの出没エリアは北海道、岩手、秋田、宮城などだが、今年のクマ出没率は5倍から30倍とのことで、まさに緊急事態だ。

 

これを野放しにすると、野生のクマがどんどん増えて人間の住む市街地に勢力を広げ、犠牲になる人間は増え続ける可能性がある。

 

そして、この深刻なクマ被害に対応するため、警察の機動隊員らによる「ライフル銃を使ったクマ駆除任務」が11月13日に始まって、任務を行う秋田、岩手両県警では対策チームの出動式が開かれた。

 

クマの出没が相次ぎ、ハンターが不足していることなどを受け、警察は保有するライフル銃をクマの駆除に使用できるよう国家公安委員会規則を改正。市街地に出没し、ハンターによる「緊急銃猟」などの対応が難しい場合、警察官職務執行法にのっとって駆除する。

 

指揮官と連絡調整役、射手2人の4人1組の対策チームを両県に2チームずつ編成。担当エリアを分け、警察施設を拠点に出没地域で対処する。射手は機動隊の銃器対策部隊の隊員で、2週間交代で他県からも応援を得る。

・・・というものだ。

 

警察の銃器対策部隊には、SATの狙撃銃として豊和工業製のM1500が配備されているとされており、熊駆除にもこれが使われる可能性が高いと思われる。

 

ライフル銃とスコープ

 

 

都会に住む者にとっては、想像することが難しいかもしれないが、クマという凶暴な野生動物が山から食い物を求めて市街地に出没し、人間を襲う事件が発生しているわけだ。

 

これが、クマではなく頭のおかしくなった人間であれば、警察が出動し、逮捕するか場合によっては射殺する。

 

もし、これが他国の軍隊であったとしたら、自衛隊が出動する。

 

しかし、野生動物となると管轄は、主に環境省。農作物に被害を及ぼす鳥獣などは農林水産省となるらしい。

 

「鳥獣保護管理法」なる法律があって、野生動物の捕獲や殺傷は原則禁止されている。

 

たとえ人を襲う凶暴なクマであっても、都道府県や市町村からの許可無しに駆除することは、法律違反となり、懲役や罰金の対象となる。

 

通常、クマが出没したときに活躍するのは、狩猟の許可をもったハンターということになるが、クマと戦える能力をもったハイパワーライフルの許可を持っているひとは僅かしかいない。

 

日本の銃刀法は世界でも希に見るほどの厳格さで、一般市民が銃を持つことはほぼ不可能に近い。

 

ライフル銃を所持するためには、原則として散弾銃の所持許可を10年以上更新した強者だけとなっている。

 

結果、銃を撃ちたければ、自衛隊か警察に入るのが最も手っ取り早い。

 

巨大で凶暴なヒグマを確実に仕留めるためには、この狩猟用ライフルが最も有効で、散弾銃でも12ゲージのスラッグ弾や大口径ライフル(.308 Winchesterや.30-06 Springfieldなど)が、適切な射撃で致命傷を与えうる。

 

環境省によると、狩猟免許の所持者は2019年度は約21万人で、60歳以上が60%と高齢化が進んでおり減少の一途をたどっている。

また、21万人の狩猟許可所持者の多くはペーパーハンターで実働していないらしい。

 

この狩猟免許所持者は、50年前の1975年には50万人居たそうだが、犯罪者予備軍として公安員会にマークされ続けるリスクを背負って、しかもそれだけでは食っていけないハンターになろうとする若者がいないので仕方ない。

 

国が銃刀法を改正してハンター育成に力を入れない限り、ハンター絶滅の方向は変わらないだろうが、クマに襲われる事件が増え続けるより、市民に銃を持たせるリスクの方が日本にとっては高いのでその方向は変わらないだろう。

 

では、市民の命と安全を守るために、国としてクマのような凶暴な害獣を誰の管轄で誰が駆除するのか?という問題は、それが環境省管轄の野生のクマだから面倒くさいことになっているが、もしそれがゴジラのような未知の怪獣であったり、地球外生命体(エイリアン)だったとすれば、自衛隊ということになるのだろうか?

 

とにかく敵が何ものであったとしても、我々市民は自衛する手段がないので、警察が自衛隊に守ってもらうしかない。

 

そのうちAIが暴走して、人間を駆除するために攻撃を始めたら、誰が守ってくれるのだろう?

 

今回は、警察が出動することになったが、警察の仕事として野生動物の駆除には違和感がある。

警察は法の番人として、法を犯す人間を捕まえるのが仕事なので、危険な野生動物の駆除は管轄外のような気がするが、仕方ないのだろう。

 

一方、クマの立場になって考えてみれば、野生の本能に基づいて生存のために人間を襲う行為について、人間の法に基づいてそれを罰することはできないし、もし治安の為にクマを殺しすぎて絶滅させるとすれば、それは人間の勝手なエゴとも思える。

 

ここで、人間が学ばなければならない教訓は、野生のクマに限らず、地球上に生息する動物のひとつとして存在する人間にとって最も脅威となる存在は、同じ人間であるには違いないが、人間だけでなく色々な脅威が存在しうるということだ。

 

そして、相手が人間でないときに国や地方自治体がどう対処可能かの選択肢はあまりなく、期待できないということ。

 

さらに、そのような人間でない外敵に襲われた場合、武器を持てない我々一般市民は、自らの身を守ることが極めて困難だということだ。

 

国民だけではなく、日本という国自体の外敵に対する自衛能力が低いのは、日本人が元々そういう植物的な性質の民族だから仕方ないのかもしれない。

 

時を同じくして、高市首相が、中国のクマの尻尾を踏んだ為に、日中関係が微妙な感じになっているが、中国のクマは米国のクマのことしか考えていないのに、そのクマの戦いに首をつっこむなという軽い警告を大げさにメディアが取り上げているようにしか思えない。

 

我々日本人は、クマのような肉食の猛獣でないばかりか、植物のようなものなので、猛獣の戦いに身を投じることはきっとできないだろうし、するべきではないのかもしれない。

 

民間人がクマから身を守る方法としては、「クマの出るところには行かない」ということに尽きる。