リービング・ラスベガス(leaving Las Vegas)1995 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

とにかく悲しく切なく救いようのないストーリーだが、とても印象に残っている好きな映画のひとつだ。

 

1995年の映画なので、最初に観たのは28年ほど前ということになる。

劇場ではなかった気がするので、多分TSUTAYAのDVDレンタルで観たのだろう。

アル中と娼婦のラブストーリーというキワドイ内容のせいか、TVで放映されることも記憶ではなかったが、今はアマゾンプライム公開されている。

 

 

 

今回キャセイパシフィックの機上でこの古い映画がなぜか公開されており、久しぶりに観ることができた。

 

そして感じたのは、30年近く前に観たときとはちょっと違う印象を持った。

 

最初にこの作品を観たときの私は30歳くらいで、この映画とニコラス・ケイジの演技が突きつけるものは余りにも衝撃的だったに違いない。

とにかくニコラス・ケイジ演じるベンという主人公の酒の飲み方が凄い。

※ちなみに、この役でニコラス・ケイジはアカデミー及びゴールデングローブ双方で主演男優賞を獲っている。

 

最初にこの映画を観たときには、もしかしたらこの主人公のような状況や経験を自分自身が将来するかもしれないと思ったかもしれないし、逆にあり得ないと思ったかもしれない。

おそらく、自分にはこのような状況はあり得ないと思う人間がこの映画を観たのであれば、ある種の現実世界を超えたファンタージーとして感動できるか、もしくは全く感動できないかのどちらかだろう。

 

しかし、28年もの月日を経て、実際に自分はそれに近い状況を味わったし、なんとかそれを乗り越えて今まだ生きている現在の私にとって、このスートーリーは決してファンタジーではなく、重いリアリティーに満ちているように思えた。

 

最初から死を選んでいて、アルコールを水のように飲み続ける主人公のベンはラスベガスで娼婦のサラに出会って、ただそばにいてくれることだけを願う。

 

この主人公が、なぜアル中になったのか、なぜアルコールを飲み続けて死のうと決意したのかはあまり説明もなく希薄だが、最初の最初から全てに絶望しており生きている意味を感じてはない。

これは、単に心が病んでしまってこうなったというよりは、人間の本質が病んでいることに絶望していると言った方が良いかもしれない。

 

カネが尽きるまでひたすら酒を飲み続けて死ぬためにラスベガスにやってきたベンは、ロシアンマフィアの彼氏の金銭トラブルの解決の為にラスベガスで高級娼婦として働かされているサラと偶然出会う。

 

この出会いは、本当に偶然で一瞬の出来事だが、ベンはその娼婦であるサラに、自分を最後に受け入れてくれるであろう天使的な何かを見つけ、自分が飲み続けて死ぬまでの僅かな間、身体ではなく心で寄り添ってくれることを望む。

 

アル中で全てを捨てて死ぬことを決意している人間が、最後に心を求めたのが心ではなく身体を売る娼婦という設定が、余りにも不条理で残酷で、そして悲しい。

 

人間界に絶望して死を選択している主人公ベンの死ぬ決意が堅く、それが決して覆らないであろうことは序盤から明白であり、娼婦のサラはベンが最後に出会った天使のような存在として描かれている。

 

娼婦のサラは、その不条理な出会いの中でアル中のベンを愛するようになり、そして愛するが故にベンがアルコールを飲み続けて死ぬという決意に最後まで寄り添おうとする。

 

しかし、人間としてベンを愛してしまっているサラにとって、愛する人の死を見届けて天に誘う天使の役目は重すぎて限界に達してしまうが、その時には既にベンの症状は手遅れとなっている。

 

自分が心から愛する人が、死を望んでいた場合に、それを容認し支える行為は自殺幇助とも言える。

 

既に心から死を望んでいる人を愛してしまった場合、その願望を受け入れるのが愛なのか、それとも力ずくでも死なせない努力をすべきなのか?

 

イエス・キリストは人間の罪を背負って自ら十字架の磔を選んだという。

 

そのイエス・キリストの決定している人間としての死を、イエスを愛する人たちには止めることはできなかった。

 

運命として決定している死に対して、救いを差し伸べられるのは、神か天使しかおらず、いずれにしても天国に導くということが神や天使の役目に違いない。

 

飲み続けて死ぬこと以外に何も望んでいなかったベンが、最後に望んだものが娼婦であるサラの愛であり、サラはそれを受け入れて、天使としての役割を果たそうとしたのかもしれない。

 

神ではなく人間がどのような理由にせよ、自ら死ぬこと、しかも酒を飲み続けて死ぬという行為は、人として罪深い行為だが、そのようなこの世の全てに絶望して死が決定されている人間に出会ったとき、その死の決意の意味になにか特別なものを感じ取ってそれを受け入れたサラという女性は、神によって定められた運命に導かれていたのかもしれない。

 

もし、サラが最後に心から望むことがあったとすれば、それはベンが共に生きていてくれる事だったに違いないが、冷酷にもこのストーリーにそのオプションは存在していない。

 

 

この作品は、ジョン・オブライエンが90年に書いた「半自伝小説」であり、売れ行きは2千部にも満たないぱっとしない状況だったが、92年に映画化の話が持ち上がった後、安価なペーパーバックで刊行されたものだ。

映画化は94年3月に決定したが、その2週間後となる4月10日にジョンは拳銃で頭を打ち抜いて自殺した。部屋に残されていたのは、ピザの箱と半分空になったウォッカのボトルだけだったという。享年34歳。

 

つまり、この映画を原作者のジョン・オブライエンは観ることなくこの世を去っている。