最近、NETFLIXで公開されているしげの秀一氏の「MF GHOST」というアニメを観ている。
キャラクターの目がやたらデカくて少々気持ち悪いが、ストーリー的には割と面白い。
世界がEVだけになった近未来の日本で行われ、有料ネット配信で世界に放映されているガソリン車によるストリートレース「MFG」を題材にした作品で、現行のトヨタ86やGTR、ランボやフェラーリといった現行のガソリンエンジン車が作中では旧世代の遺物として大活躍する。
グリップウエイトレシオの均一化=「車重に応じてタイヤのトレッド幅を決定する」という謎の規定により、重い車ほど太いタイヤを装着することができ、軽い車ほど細いタイヤを装着しなければならず、軽量化でタイヤの負担を減らしたり、エンジンの馬力を上げる利点が少なくなる。そしてこの規定が唯一の車種規制のレースであるが故、基本的にノーマルでビッグパワーのフェラーリ、ランボなど高級車が有利となっており、リッチマンズレースと揶揄されたりしている中、パワーもないトヨタ86を駆る主人公が驚くべきタイムを叩き出すという痛快なストーリーとなっている。
グリップウェイトレシオという唯一の規定に潜む謎は、イニシャルDから引き継がれた高橋涼介の公道最速論がカギとなっており、その謎解き的な要素も含まれている。
おそらくこのアニメは海外でも流行るだろうが、これを観ていると、大阪万博などで本来行われるべき外人向けのイベントがこのようなテイストの日本でしか観れず、経験できないような何かではないかと思わせる。
会場の夢洲か阪神高速で、このようなストリートレースをやってドローンで中継すればウケること間違いない。
少々話は逸れたが、「イニシャルD」が国内のみならず、海外でも日本の「走り屋」の世界観を広め、ハチロク、GTR、RX'7(FC/FD)やランエボといった国産車の価値を高めた事には違いない。
クルマを所有すること自体が非常に高価な香港でも、テスラやランボルギーニがやたらと多いのと同じくらいに珍しい走り屋仕様の日本車を見かけることが多い。
日本の走り屋文化や走り屋仕様のクルマは、アニメと同様に日本固有のオタク文化であり、今や世界に誇る外人垂涎のコンテンツと言えるかもしれないのだ。
コロナ中の2021年8月に、リブログした「歴史に残るMT仕様の4ドアスポーツセダンを探す旅々」という記事を書いたが、この縛りで最近探すのが厳しいと感じるのはMT仕様&4ドアセダン(もしくはスポーツワゴン)という部分で、2ドアクーペやスポーツ車を選択肢に入れればそれほど難しいわけではない。
それこそMFゴーストの劇中で大活躍する現行トヨタ86も、ライバルのビッグパワー高級スポーツ車が軒並みパドルシフトのATなのに対して6MT仕様だ。
要は、(4枚ドアの)高級スポーツセダンでマニュアル車を探すのが大変だということに過ぎず、年式が15年以上は古い(2000年代以前のもの)しかそもそも市場には存在しなくなってきている。
快適さを求めるセダンで、それがスポーツパッケージだとしても、MTである必要性やそれを求めるニーズがほぼ消滅してしまっているからだろう。
あれから2年経ったが、私自身は今でも2006年式アルファロメオ159の2.2JTS6MTにはまだ乗っている。
元々新車では400万円以上したラグジュアリーでジウジアーロデザインのカッコよいアルファロメオが、今は不人気なためなんと100万円以下で買えるという事もあり実はまあまあファンが多いようだが、圧倒的に右ハンドルのセレスピード(AT)仕様が多く、左ハンドル6MT仕様は数が少ない。
100万円くらいで、このアルファロメオ159の2.2J、左ハンドルの6MT仕様という中古があれば10万km超えでも状態が良ければ買ってもいい楽しいクルマであると言っておこう。
案外理想的なマニュアル仕様の4ドアスポーツセダンなのかもしれない。
結局、悩みに悩んだ挙げ句17万キロを走っている82年式BMWのアルピナB9(E28)は手に入れた。
これは間違いなく歴史に残る名車には違いないが、流石に40年前のクルマなので維持して行くのは大変そうだ。
このアプピナB9が「4ドアMTスポーツセダン左ハンドル縛り」で私が終のクルマとして選択した結論ということになる。
さて、ここまで私がMT車に拘る理由というのをもう少し掘り下げてみたい・・・。
MT車好きな人はAT車を馬鹿にしているという意見もあるが、決してそんなことはない。
単なるエンスーな嗜好性の問題だ。
とにかくMT車は乗っていて楽しい。
感覚的な運転する喜びの度合いが明らかにAT車より高いのだ。
なんというか官能的だ。
クルマの運転というのは、楽しくなければならないと思う。
何もスピードを出してコーナーを攻めるとか飛ばさなくても、アクセル、ブレーキ、クラッチを足で、ステアリングとシフトを手で操作しながらクルマと対話しながら走るのは人間の能力のアナログな拡張機能を操っているという実感がある。
クルマ好きのひとにはいくつかのタイプがあるが、走り屋以外でマニュアルシフト(MT)に拘るひとはあまりいないかもしれない。
古い特定の車種に拘るひとの場合にも、選択肢がそもそもMTしかないとケースは有り得る。
例えば、空冷のポルシェ911で89年以前のものにはMTしか存在しない。
90年の964からティプトロニックというATが導入されたが、ナローや930(Gシリーズ)となるとマニュアルしか存在しない。
F1マシンですら、今や多段階(8速)のAT(セミオートマチック)とパドルシフトの組み合わせなので、サーキットを走るにしても今更MTの拘る必要は全く無く、むしろ多段ATの方が早いだろう。
また、ドリフト競技とか真剣にやるひとはFRのMT車が必要だろう。
MTの免許もなく、MT車に乗ったことのない若い人から見ると、忙しなくシフトを行っているMTの運転はやたら忙しく奇っ怪に映るようだ。
MT車は快適性ではATとは比べようもないし、それなりの技術が要求されるものの、MT車を操ることで得られる快楽には捨てがたい魅力がある。
今や免許も殆どの人がAT限定で取る時代なので仕方ないとはいえ、MT車を運転する技術そのものが消失していくとすれば悲しいことだ。
クルマというのもが、移動手段である限り、快適性と安全性という議論無しにはその性能について語ることはできない。
クルマの設計・製造技術はこの40年間で格段に進歩しているが、アナログな技術は80年代において既に頂点に達しており、2000年以降のデジタル化の普及によって、コンピュータによる機能制御比率が圧倒的に高く、同時にAT化も進んだ。
自動ブレーキや自動運転など、AIによる人間の能力補完技術はこれから益々普及し、理論的にはより安全なクルマが作られていくことだろう。
クルマ社会の未来は、人間が何も操作しなくても、スイッチを入れて動かすだけで安全に目的地に運んでくれる便利な世界になるのかもしれないが、自動車というものが乗り物である限りは、例えその乗り物がAIによって自動で運行されるものであったとしても、その乗り物が暴走した場合には運転者(所有者)に責任が及ぶものだと考えられる。
3年前から乗馬というものを始めたが、乗馬においては、馬が騎手の指示無しに勝手に動くことや止まることは絶対にさせてはならないことだと言われている。
自動車という乗り物も、人間が制御できないようなものになってしまうと乗るべきものではなくなってしまうような気がしている。
本来、制御できないほどの能力を持った乗り物に、制御する技術を身につけて乗るのが人間と乗り物のあるべき関係で有り、制御できない乗り物には乗るべきではないのかもしれない。
クラッチ機能は、エンジンの駆動をミッションに伝達する接点であり、人間の力を遙かに超える内燃機関のエネルギーの駆動への伝達を足でクラッチ操作によって管理しているという点で、クラッチという機能とそれを操作する人間の技術は、エンジンの生み出すエネルギーを感じて適切にそれを運用する為の資格のようにも思えるのだ。
それでも、いつか左足が動かなくなってクラッチを操作できなくなったら、自分ではクルマを運転しないか、もしくは右足が動けばAT車でも乗り続けるかしか選択肢はなくなる。
ある知り合いが、1997年にポルシェ993を新車で購入し、25年大切に乗り続けてきたが、年齢が80歳を超えて足が悪くなり、乗れなくなったので手放そうかと思っているという話を聞いた。
まだ4万キロも走っていない新車のような993Sでティプトロニック(AT)ではあったが、自分では運転できなくなってしまったという事実が悲しく感じると同時に、たとえ運転できなくても置き場所があるのであれば売らずに置いておいて欲しいと思った。
乗馬も、80代でガシガシ乗っているひとも居ることは居るが、そういうひとは昔から乗っていて乗馬歴が20年以上ある人が多い。
マニュアル車も、ポルシェも、バイクも、何歳まで乗れるかは分からないが、今乗れるうちに乗っておかなければ、将来乗れることもない。
近い将来、「MF GHOST」の世界のように、ガソリンエンジン車が無くなる時代が来て、自動運転のEVだらけになったとしても、きっとガソリンエンジンで走るMT仕様の自動車の魅力は決して衰えはしないだろう。
たとえ、その時に自分がもう乗れない身体になっていたとしても、そういった価値のあるクルマには永遠に存在し続けていてほしいと心から願うし、旧世代の化石のような荒くれマシンを愛し、乗りこなそうとする若者にも居てほしいものだ。
人間の身体は衰えていくが、アナログな自動車のような機械は、適切にメンテし続ければ100年以上も動き続ける。
そういう、機械の身体にたいする憧れもあり、その機械と一体になれる時を少しでも長く感じていたいと願うからMT車に拘るのだろう。
まるで青春時代の純粋な恋の甘酸っぱさが忘れられず恋愛を求め続ける悲しいノスタル爺のようだ。