パソコンという道具とお別れする日は来るのか? | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

Mr.Gの気まぐれ投資コラム

50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

今でも旅をするときにはラップトップPC、スマホ、ダブレットと3つの通信機器を持ち歩いているが、実際のところPCを使う機会は10年前と比べれば激減している。

 

長文を書く時や、エクセルなどのスプレッドシートを使うとき以外にはPCが要らなくなってしまったせいだ。

 

しかし事務所では、相変わらずパソコンを開いている時間が長い。

 

仕事を開始すると共に、パソコンを開け、仕事終わりにパソコンを閉じて終わるというのが単なるルーティーンになっているような気がしないでもない。

 

実際には、単に習慣で持ち歩き、儀式的にパソコンを開けるもののネットサーフィンしている時間が多く大した仕事はしていない気がする。

 

果たして、いつまで我々中高年世代は、パソコン(ラップトップPC)を持ち歩き、なんとなくPCを開いて仕事をしている気分に浸る習慣を続けるのだろうか?

 

Z世代以降は、既に殆どのことをスマホだけでやっており、仕事的なことに関してのみパソコンを使っている(使わされている)が、現実にはスマホだけでも仕事は成り立つ環境になっている気がする。

 

思い起こせば、携帯電話が普及し始めた90年代になって、初めて携帯電話という小型の通信機器を持ち歩くことになったが、当時は「こんな小さなものでどこでも通話ができる」ということはものすごいインパクトだったことを記憶している。

 

線の繋がっていない携帯電話というちっこい電話でどこにいても電話ができるという便利さと、どこにいても捉まってしまうという不便さを同時に感じたものの、その手のひらに収まるちっこい移動型の通信手段は以降手放せないものとなった。

 

殆どの仕事を対面会話によってこなしてきたアナログ世代にとって、外出先で携帯片手に仕事をこなしている姿はとにかくカッコよかった。

口でアンテナ伸ばすとか、パカパカ(折りたたみ式)携帯を片手でパコッと開ける仕草とかドラマでキムタクがやってたのを真似たりしたものだ。

 

携帯が普及する前の「ポケベル」というやつは、残念ながらそれが流行った90-95年頃に私は海外にいたため経験がない。

あれはあれでまだデジタルとアナログが融合していてなんだか情緒があったような気がする。

 

そして95年以降、ラップトップパソコンが普及し始め、ビジネスマンはラップトップPCを持ち歩くのがカッコイイという風潮が始まったが、当時はまだインターネット環境が今とは比べものにならないほど悪かったので、通信機能は、相変わらず電話による通話が主体だった。

 

その後、日本では99年にNTTドコモのiモードという画期的なインターネット機能が携帯電話に導入され、電子メールやネット上のiモード独自のコンテンツに携帯電話でアクセスができるようになったのもまた衝撃的だったものの、その後インターネットに直接アクセス可能なBlackBerryやスマホの台頭により10年ほどでiモードは駆逐されることになる。

 

映画「BlackBerry」を観ていると、2002年に発売されたBlackBerryの携帯情報端末が、音声通話やウェブサイトの閲覧に対応する画期的なPDAであり、2007年にタッチパネル方式の初代iPhoneが発売されるまの約5年間、BlackBerryがラップトップPCをリプレイスする携帯端末の未来であるかのように思われたことを思い出す。日本ではあまり流行らなかった気がするが、その頃世界では一斉を風靡し、独自の暗号化技術が使われていたためテロリスト御用達だったとも言われるBlackBerryの短い歴史は映画の中で語られている。

電話とパソコンというものはそもそも別々の役割を持ったデバイスだった筈だが、日本ではiモードが普及し始めた99年から、テキストメッセージを通話用の携帯電話でやりとりするようになり、今まではパソコンでしかメールのやりとりをしていなかったのに、携帯でも電子メールのやりとりするようになったのが、電話とパソコンの機能重複の始まりだったような気がする。

 

本格的なインターネットの普及は、2000年以降インターネット回線が世界中を網羅するようになって、通信速度も信じられないほどの進歩を遂げた結果、パソコンやスマホなど通信回線に依存する機器は、いまや人間が生活をする上で必要不可欠なツールとなってしまった。

特に2010年頃からのたった10年で、我々人類は見事にスマホ無しでは生きられない「スマホホリック」になった。

 

この状況を受け入れるかどうか?という選択肢はもはや存在しないような気がするが、それと同時にパソコンを持ち歩く習慣やパソコンで仕事をする儀式からそろそろ足を洗わなくてはならないと感じ始めている。

 

50代の我々は、仕事=パソコンという環境で生きてきた「パソコンネイティブ」であり、パソコン無しでは生きられない「パソコンホリック」でもある。

 

私と同世代の60歳前後のひとたちは、定年になって会社で仕事をしなくなってもきっと家でパソコンを開いてしまうのだろう。

 

かく言う私自身も、事務所に行ってパソコンを開くことによってなんだか仕事をしている気になっているが、実はパソコンでしている仕事?はこのブログを書くことくらいだ。

 

海外の銀行口座もアプリ上で殆どの作業が可能になったばかりか、セキュリティーデバイスのような個人認証機能がスマホ側に取り込まれてしまったので、スマホの銀行アプリ上で完結させた方が色々とてっ取り早いこともあり、インターネットバンキングの機能が優れていたHSBC香港においても、最近では「スマホのアプリ上でしかできない」機能が増える傾向にある。

 

パソコンの良いところは、画面が大きくて老眼に優しい点と、使い慣れたキーボードがある点に尽きるが、画面のサイズだけで言えばダブレットでも良いはずだし、外付けのキーボードだけ持ち歩けばパソコンとなんら変わりないはずだ。

 

2000年頃までのオフィスワーカーは、ホストコンピュータと直結したデスクトップPCがなければ仕事が成り立たなかった。

 

特に、エクセルやワードといったマイクロソフトのOFFCEパッケージの奴隷となって表計算やレポート作成に勤しんでいた。

 

会議となると、パワーポイントでどれだけ見栄えの良い資料を上司のために作成できるかが重要で、その事に膨大な時間と労力を費やしていたのが懐かしい。

 

今は、どのようなワークスタイルが一般的なのか分からないが、コロナ中にテレワークが普及して、会社に行かなくてもリモートで仕事ができるようになったことを考えると、より通信機器の重要性が高まって、仕事のモバイル化も進んでいると考えられる。

 

おそらく、現実には殆どの仕事が、既に世界中どこにいても高速ネット回線で繋がっているスマホのような携帯型モバイル機器ひとつで完結するようになっている。

 

スマホの画面サイズや、タッチパネルによる文字入力の不便さといったデバイスそのものの機能限界は、近い将来、その端末自体が人間の身体に埋め込まれる事によって、また生成型AIの進化によって、あらゆる言語における音声入力や翻訳機能、自動文章校正機能によって、文字入力そのものが不要になるといった形になるかもしれない。

 

映画「アイアンマン」の中で描かれていた「トニー・スタークの使用するシステム」がそんな感じだった。

パソコンどころか、スマホも30年後には無くなって、「網膜投影型ウエアラブル端末」が一般化しているかもしれない。触覚もデジタルで再現され、メタバース(仮想空間)で現実のように仕事をしたりスポーツを楽しんだり、食べること、寝ること、排泄行為という生物としてリアルにしなければならないこと以外はVR(仮想空間)で行うのが当たり前になるのだろうか。

 

もし、その頃まだ生きていたら面白そうなのでそれはそれで受け入れて楽しみたいとは思うが、そんなことより先ずは呪詛柱のようなパソコンから解脱しなければならないと感じる今日この頃だ。