ローマクラブ「成長の限界」から50年を経て脱炭素社会の実現に向かう世界 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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今やSDGsや脱炭素といった国際的な環境コンセンサスを受け入れない国や企業は生き残れない時代となったようだ。

これはコロナパンデミックにおいても、国単位の対策方針に関して世界が割れているのと同様に、資本主義社会にとってはとてつもなく大きな試練だと言える。

ゼロ・コロナを実現できない資本主義国家が、果たしてゼロ・カーボン社会など実現できるのだろうか?

二酸化炭素の排出量を抑えるワクチンでも開発して打ちまくるのが良いかもしれない。

 

富の再分配とは次元が異なり、そもそも所有権が明白ではない地球規模の環境という共有資産を国や企業単位で守っていくという発想に無理があるように思うが、民主主義社会ではそれを実現できるルールを話し合うほか手立てがない。

 

昨今流行のSDGs(持続可能な開発目標)の達成や、地球温暖化による危機を回避する為、脱炭素社会の地球レベルでの実現圧力というものは、この100年の間に人類が行ってきた環境破壊のツケをいよいよ先進国が払わなければならないという突きつけられた末期的なサインに感じられる。

 

SDGsのルーツは、1972年にローマクラブが公表した報告書「成長の限界」だとされる。

 

今から50年前の出版書物だ。

 

この「成長の限界」という報告書は、「このまま人口増加や環境汚染が続けば、(中略)あと100年で地球の成長は限界に達する」と世界に警鐘を鳴らしており、なかなか衝撃的な内容だったが、当時は「ノストラダムスの大予言」的な悲観的破滅論としてあまり社会には受け入れられなかった。

 

だれもこのようなエネルギー節約論には興味も示さないようなバブル真っ盛りの80年代に、大学生だった私は、卒論のテーマにこの環境経済学を選んだ。

 

それから40年経った今、皮肉にも娘は卒論のテーマにSDGsを取り上げている。

 

まだ読んではいないが、この「成長の限界」が半世紀の時を経てクローズアップされているのか、続編的な本も出ている。

 

 

50年前は、先進国の人口も増え続けていたし、世はモータリゼーションの波の真っ只中にあり、日本でもようやく車社会の到来した頃だ。

また、大量生産大量消費の時代でもあり、その事によって経済は急激に成長したものの、公害問題が取り沙汰されるようになっていた。

今では聞くことがなくなったが、「光化学スモッグ警報」なんていうものがあって、警報が出ると小学生たちは集団下校させられて外出しないように言われていた時代だ。

 

スペクトルマン(1971~1972)の主人公である蒲生譲二が所属する組織は、公害の取り締まりが仕事の「公害Gメン」であった。

 

田子の浦のヘドロから生まれた怪獣へドラとゴジラが対決する1971年公開のカルトな映画「ゴジラ対へドラ」から今年で50年ということもあり、へドラブームというのも起こっているようだ。

これは子供の頃観て怖かった記憶があるが、もう一度観てみたい。

 

 

当時の危機感というのは、地球規模の目線ではなく、自分たちが豊かになっていくことと引き換えに自分の国の環境が汚染され、健康に害を及ぼすという目に見えるものに対する恐れだったように思われるが、日本においては国民がその豊かさをまさに手に入れようとしている最中であり、所得倍増計画とか豊かさに溺れていてその成長欲求を超えるほどの危機感はなかったのかもしれない。

 

この50年前に日本が経験した経済成長に伴う環境破壊の危機というものを、中国は2000年頃からの10年くらいの期間に濃厚に集約されたものを経験している。

その後、2010年からの10年は、国家主導で先端技術立国を目指し、ITを最大限に活用した国家管理体制を作り上げ、自国の環境保全にも力を注いできた結果、おそらく世界で最もゼロカーボン化に近い国になろうとしている。

 

今年10月には、英国グラスゴーで、国連気候変動枠組条約第26回締約国会議 (COP26) が開催され、気候変動の悪影響を回避するのに必要な水準に至るためには、今から2030年までの10年間の取り組みが重要という意味で「決定的な10年間」でり、その最初のCOPという意味でCOP26が注目されたが、石炭火力に依存する日本が袋だたきにあったり、責任の押し付け合いが際立っていたようにも見える。

 

そもそもなぜ、「2050年脱炭素社会」なのか?
言うまでもなく今や気候危機とも言われる、深刻な地球温暖化にブレーキをかけるためであり、最高気温を年々更新し、大雨や洪水、山火事などの災害も激甚化させる温暖化を食い止めるためだろう。

2015年に採択された「パリ協定」では気温の上昇を産業革命前より1.5℃までに抑える努力を追求すると明記されている。

この、気温上昇を1.5℃に抑えるには、大気中に排出される温室効果ガスを2050年には世界全体で実質ゼロにする必要がある、と計算されており、1.5℃目標を目指すためには2050年までに世界の二酸化炭素排出量を実質ゼロ(ネットゼロ、あるいはカーボンニュートラルとほぼ同義)にし、2030年までに2010年比で約45%削減することが必要と言われているが....。

 

トランプ政権時代には懐疑的だったカーボンニュートラル政策に対して、バイデン政権発足を契機に、環境問題対策は米国主導で急激に動き出し、世界に波及した。

 

4月には米国主催で気候サミットがオンラインで開催され、6月にはG7サミット(主要7カ国首脳会議)のホスト国英国が、気候変動を最重要テーマとして掲げた。

9月には、各国が見直した最新の2030年目標に基づき、世界全体の2030年排出量を条約事務局が計算し直した結果、このままでは2.7℃までは抑制される可能性があるが、2℃や1.5℃に抑えるためにはさらに減らさなくてはならないことが分かった。

このような経緯を経て、COP26では、どうやったら1.5℃に近づけられるかという点に関心が集まったようだ。

 

そして、トヨタ自動車は12月14日、2030年の電気自動車(EV)の世界販売目標を350万台へ大幅に引き上げると発表した。

トヨタが感じ取っている途方もない危機感の源は、豊田会長の言葉通り「ビジネスモデルの崩壊」つまりは「産業の崩壊」にある。

 

米国が世界の覇権を握った最大の理由は、エネルギー・石油を支配したことにあるが、「次代の石油」である太陽光を獲ることで、中国がその地位を奪うかもしれない。

 

米国と中国とのゼロカーボンを巡る覇権闘争は既に始まっており、カーボンニュートラルは世界の覇権地図さえも書き換えかねないのだ。

 

2011年に世界の人口は70億を超え、10年経った今、80億(78億5000万人)に達しようとしている。

 

このペースは10年前の予想を遙かに超えており、10年前には2100年頃に100億を突破すると予想されていたようだが、最新の統計予想では50年速く2057年あたりには100億人に到達しそうだ。

2020の人口別国 (populationpyramid.net)

2050年なら、もしかしたら生きているうちに人類人口の上限キャパと言われる100億人を経験できるかもしれない。

 

人口に関しては、アフリカやインドなど発展途上国の人口増加が著しく、中国を含め先進国では減少に転じていくが、一説では世界的に人口増加は頭打ちになり、減少に転じるという説もあるようだ。

確かに1900年から100年で3.8倍に成長した人類という生物の人口が、生物学的に無限に増加していくとは考えにくい。

 

しかし、この100年で人類が増えすぎたことは事実だろう。

 

「人類はあらゆる生物の上に立つ存在であるどころか、自然の一部であ るにすぎず、あらゆる生物を統制する広大無辺の力の支配下にあるという認識が、そこか しこで育ちつつある。この力と闘うよりも、むしろ調和して生きることを学べるかどうか に、人類の未来の幸福が、そしておそらくは、その生存がかかっている。」という「沈黙の春」で知られるR・カーソンの一節を噛みしめたい。

 

 

 

また公開から30年以上たった今でも、宮崎駿作品「風の谷のナウシカ」の世界観は依然として現実世界を映し出す鏡のようであり、カーソンの言うように人間は所詮自然の一部であり、「自然との共生」を模索しなければ生き残ってはいけないということを教えてくれる。

 

 

50年前からわかっていて「成長の限界」においても取り上げられていたことだが、電化=脱炭素ではない。人間が使用するエネルギーの総量を減らさなければならない。

もしくは再生可能で永続的なエネルギー発生装置が必要になるが、技術的には再生エネルギーによる脱炭素かは難しいという以下の国際環境経済研究所のレポートも興味深い。

現実には、100億人規模の消費エネルギーをカバーできる再生可能エネルギーの開発からはほど遠いようだ。

再エネで脱炭素化は幻想である – NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Institute (ieei.or.jp)