小松左京先生の1973年刊行の小説を、2023年の東京を舞台に、日本の沈没という未曾有の危機を前に奮闘する人々を描くドラマとして焼き直した日曜劇場「日本沈没-希望のひと-」が面白い。
この作品は、過去に何度も映像化されているが、今作では小栗旬演じる環境省の若きエースでエリート官僚である天海啓示が主人公となっており、官僚目線で描かれている。
庵野秀明監督の映画「シン・ゴジラ」が、ゴジラという脅威と日本(政府や官僚)との戦いを描いていた面白さと似ている。
いずれも、未曾有の脅威や危機というものに対して、国家のリーダーや官僚たちがどのような行動を取るべきかというリーダー論が背景にあり、大地震やゴジラといった日本と国民を脅かすとてつもない脅威が迫っているときに国家のリーダーやその取り巻きである官僚たちが、どのような状況に置かれどのような行動を取るのか?
その責任をたった一人で背負って立つ万能な“ヒーロー”の出現を待ち望むのは現実的ではない。
どんな困難な状況下でも諦めずに“今”目の前で起きていることに対してスピード感を持って進むべき方向に舵切りをし対処してくれる“道標”となるような等身大のリーダーこそが必要とされるのだろう。
そのような、国益よりも市民の安全や暮らしを最優先に考えてくれるリーダーこそが副題の「希望のひと」に込められた思いであり、同じく未曾有の新型コロナ・パンデミックの脅威に晒され続けている今の我々の想いともリンクし共感を呼ぶところだ。
国民の安全を優先するべきだという意見と、経済を優先すべきだとという意見や圧力との戦い、その確定していない危機をいつどのように国民に伝えるべきか?
いずれにしても全ての国民を救うことはできない。
パニックをどのように制御するのか?その為に情報をどのように統制すべきか?
など、物理的に日本列島が1年以内に沈没するという絶望的な状況下で国が国民の為にできる最善策とは何なのか?
なかなか緊迫した展開だ。
関東沈没から日本列島全沈没説へと物語は進んでいくが、関東沈没説だけでも田所博士の主張は認められず、「そんなことは絶対にあり得ない」と主張する官僚や、その根拠となるデータを改ざんし隠蔽しようとするアンチ田所派の専門家などが現れる。
これは、まるで「日本経済の沈没説」に関する議論と似てなくもない。
赤字続きの日本経済は、いずれ崩壊するのか?それとも一部の経済学者が唱えるMMTが正しく、日本はこれからも安泰なのか?ハイパーインフレは起こりうるのか?その脅威に対して政府は何をゴールにどのような対策を打っていくのか?
おそらく国民の知らない水面下では、政府と経済学者や専門家の間で、ドラマ「日本沈没」で繰り広げられているような泥沼の議論が行われているのだろう。
政府の新型コロナ・パンデミック対策に関しても、同様な疑念を抱かざるを得ない。
我々国民は、なぜみんなマスクをしているのに突然感染拡大が止まらなくなったり、検疫態勢のゆるゆるのままワクチン接種が進んだだけでコロナウイルスが消滅しようとしているといった科学的根拠の欠如した情報に踊らされている。
国は、「コロナ問題」に関しては、いったい何をどうしたいのか?
どう考えても、新型コロナウイルスを撲滅し、その危機を回避しようという姿勢には見えない。
被害が自然収縮してきたのでワクチン打ちまくりで共存しようという戦略なのか?
感染拡大の非科学的自然収縮を既成事実とし、経済の復興を最優先しようというのか?
国民が優先されているのか?国家が優先されているのか?
コロナ対策に関しても、経済対策に関しても、同様な疑念を抱かざるを得ない。
小松左京先生の原作とはテイストが随分異なるものになってはいるが、シン・ゴジラ的に官僚目線で真面目に「日本沈没」という未曾有の危機に際して、国が国民の為にできることを描こうとしている。
我々国民は、このドラマの中では、基本的には主体性をもたない烏合の衆であり、運命に翻弄される立場だが、国や政府が国民の為にあるのだとすれば、政府は国民によって支えられて成り立っているべきだとも言える。
国家のリーダーや官僚たるものが、国家の未曾有の危機に際してどうあるべきかを考えると同時に、国民である我々はどう行動すべきか?についても考えてみるべきだろう。
日本列島が物理的に沈没し、消滅してしまうということが、本当に起こるかどうかは起こってみなければ分らない。
この物語では、現実にそれが起こる前提だが、もし起こらなかったら?という見方も面白い。
起こらなければ、このドラマは成り立たないが、列島の沈没というのは徐々に起こることなので、関東の部分的沈没という事態が実際に起こらなければ、国民の危機感は薄かったかもしれない。
経済的な沈没という危機も、いきなり起こるのではなく、徐々に起こるものと考えられる。
公表される株価や為替や物価指数といった数字や数字の分析結果だけではなく、もっと我々の身近なところで実際に目にしたり感じたりすることの中に、政府が公表できない予兆というものが隠されているのかもしれない。
日本が地殻変動により物理的に消え去るにしろ、国土は沈没しなくても経済が崩壊するような場合にしろ、国民は政府から知らされる前に自主的に避難できた方が安全に決まっている。
3年以内に日本経済が沈没するという予想が付くのであれば、資産を海外に疎開させる時間はまだ十分にあると思うが、仮に田所博士のような異端の専門家がそれを予測し、政府に警告していたとしても、そのことが国民に知らされることは現実に沈没が始まり、それが不可避と確定するまではないだろう。
危機というものは、それに直面し、避けがたい事態になってしまっては無傷では済まない。
その被害を如何に最小限に食い止めるか?どうやってひとりでも多くの国民を救うことができるか?その為の最も有効かつ合理的なトリアージは?といったことが官僚の考えるべき事であり、そうなってしまっては国民にはできることが殆どない。
その事実は、コロナ渦において既に経験済みの筈だ。
我々国民にできることは、危機の予兆を感じ、自分の本能と判断でいち早くその危機の可能性から避難することだろう。
そして、毎日その準備をし、危機の可能性からいつでも逃げ出せる柔軟性を身につけておく必要がある。
子供たちには、そういう柔軟性を身につけてもらいたい。