1989年1月8日から30年間続いた「平成」という元号もあと1週間ほどで終わり、今年2019年5月1日からは「令和」が始まる。
この国際的にはあまり関心度の高くないものの、日本人にとっては大きな節目を感じさせる出来事を控えて、個人的には色々な感傷に浸っている。
私は東京オリンピックの1964年(昭和39年)に生まれ、1970年には大阪万博を経験し、子供時代から青春時代までをまるまる昭和の世界で生きてきて、大学を卒業して就職してから数年はバブルを謳歌することもできた。
昭和というのは、思い返せば今とは比べものにならないほど貧しかったが、戦後の復興政策もあり、国民は純粋にハングリーに働き続け、経済も成長し続けた勢いのある時代だった。
昭和の終わりが、64年だったというのも64(ろくよん)という生まれた1964年とのかぶりに運命的なものを感じないでもない。
1989年に平成になってからの30年間は、一般的にはバブル経済の終焉と、その後の低成長の歴史とくくれるが、自分にとっての平成の30年は社会人になって、結婚もし、家庭を持って、会社員としてバリバリ働いた15年と、それに傷ついてボロボロになって離婚したり、会社を辞めて独立したりして、どん底から必死で成り上がってきた15年の半分半分を組み合わせた歴史だったと思う。
平成になって15年で、普通の会社員として経験上得たものも大きかったが、結局喪失したものに気付き、残りの15年間でその失ったものを取り戻すために闘ってきた感じがしている。
いずれにしても、平成の30年は自分にとって、仕事をしてお金を稼ぐことに支配された人生だったと言える。
近年になって理解できたことだが、その事にあまり悔いはなく、仕事やお金儲けが自分の趣味だったようだ。
平成の世は、自分とって古き良き昭和の時代にはあって平成になって失った生き甲斐のようなものや、心に巣くう漠然とした喪失感を回復する為の30年だったとも思える。
カネの無い子供の頃や、学生の時には手の届かなかったクルマやバイク、銃やナイフといった趣味のものは50歳を超えてから大抵手に入れた。
理想の結婚や家庭、35年ローンの一戸建て住宅購入、海外赴任、エリート会社員、不倫や恋愛、離婚と再婚、退職と起業、数々の出会いと別れ、信頼する仲間の裏切り、など普通なことと普通じゃないことの両方を経験した濃密で波乱に富んだ30年だった。
しかし、ここに来てこの先の、おそらく死に向かう最終コーナーの向こうが見えなくなってしまった。
「平成」が喪失の時代だったとすれば、「令和」はそこから復活する時代になるのだろうか?
「平成」は、経済的には低成長の時代ではあったが、総じて人々は豊かな暮らしを謳歌したのではないかと思う。
自分自身も、色々あったものの、結果としては平成というほんわかした時代をそれなりに楽しませてもらった気がする。
これから来る「令和」という時代を、自分は同じように楽しんで生きることができるのだろうか?
残念ながら今年55歳になる私は、間違いなく「令和」という新しい時代の主役ではない。
まだまだ投資やビジネスの世界で活躍することは可能かもしれないが、平成の時代に30年間培ってきた自分の知識や経験を、これからの新しい時代を担っていくべき本来の主役であるべき若者に押しつけるのは心が痛むし、そもそもすべきことではないだろう。
結局、この平成という時代に私がしてきたことは、稼いで使ってきたお金の量だけが全てのように思え、次世代の主役を育てることや、その活躍できる地盤も作れなかったのではないか?というのがここにきて私が感じる平成の終わりの喪失感なのかもしれない。
昭和生まれ、平成スタンダードの私の目からみて、次の時代「令和」が、平成よりも良い時代になるという予感は全く無い。
もし、わたしの予感通りであれば、まだ就職もしていない子供たちが、この先30年以上を生き抜いていくことは生やさしい戦いではなくなる。
その親世代である我々は、自分や親や子供たちの為に、平成の世を必死で生き抜いてきたつもりだが、結果として、自分たちが生きている内は、社会保障の大きな負担を子供世代に背負わせていく負の社会システムを全く改善できなかったばかりか、ますます悪化させてきた。
平成という時代は、その始まりから破綻が見えていた「経済成長に依存する貨幣経済」の問題、いずれは沈むことが明らかな穴の空いた船を、だましだまし知らなかったかのようにスルーしてきた30年だ。
その沈みゆく船の運営や船長の役割を、その船に乗せてしまった責任のない子供たちに委ねることはできないし、これ以上「沈まない」という嘘もつきとおせない。
来年には東京オリンピック、2015年には大阪万博が控えており、普通に考えれば経済的効果が期待できるはずだが、現実はどうか分からない。
日本という国の経済は、内需的にはほぼ飽和していて、そもそも成長性は失われている。
これからは、中国人を筆頭に富裕層外国人のインバウンド投資に依存する成長しかあり得ない。
この移民問題に関しても我々は目を背け続けてきたが、令和の時代にはそれがなし崩し的に現実化する。
平成の終わりに私が感じている喪失感は、まさに自分が30年もかけて、次の時代を担ってく次の世代に残せる何も生み出すことができなかったという無力感に集約される。
ひとは生きて行くことに必死で、今日のことや明日のことしか考えずに30年も漫然と費やす事が可能な愚かな生き物なのだ。
そうして気付いた時には、もう時代の主役ではなくなってしまっている。
今後私のやるべき事が、さらに大きい額の自分が使い切れないほどの富を築いて、その資産を次世代に残すというような単純でバカげた事でないのは明らかであり、しかも、自分が生き延びてきた平成のノウハウは令和では通用しない無用の長物となることも明らかだ。
つまり、何もしてやれることがない。
それでも、何かを求めて生きて行かなければ、自分が生きて行く価値が見いだせない。
平成では主役だった自分が、脇役としてでも何かに役立って生きて行きたいと願う・・・しかし、新しい時代には主役どころか脇役の席もないという現実。
令和という新しい時代を迎えるにあたって、受け入れられないことばかりだ。
「平成ロス」とでも言おうか・・・問題に目をつぶって脳天気に生きて来れた平成をあと5年でもよいから延長して欲しいとさえ思える。
時代も、ひとの命も必ず終わりが来る。
時間や時代というものは、生き物ではないので、継続して繋がっていくもののようにも思えるが、始まりがあるものには必ず終わりがあり、その時は突然やってくる。
私の人生のなかでコアな部分の殆どを過ごした、経済は低調だったし、いくつかの世界秩序の転換に繋がる大きな事件はあったものの、おおよそ平和で、国民は脳天気で居られた「平成」という30年間のバブル経済打ち上げパーティーのような時代の終わりを心から惜しむ。
そして自分が主役でも脇役ですらない「令和」という時代が、主役の子供たちや若者達にとって希望溢れる全く新しい概念やシステムによって運営される自由で平和な世の中になることを心から願う。
自分自身はこれを節目に、これから暫くの間は「令和」時代の自分の役割と生き方について静かに模索してみたい。