基本的に、人間という生き物は生物学的には食って寝るために生きているに過ぎないが、「ひとはパンのみによって生きるにあらず」と言われるように人間固有の生きるための精神的なモチベーションというものが必要とされる。
「もし、物理的にも経済的にも精神的にも完全に自由な状態だったとしたら、いったい何をしたいか?」
あるいは、この時点で完全に自由でないにしても、自分に与えられた時間と予算の中で、どんなことができたら心のテンションが上がって楽しいと感じたり、興奮したり、気持ちが良かったりするのだろうか?
何があれば?
何ができれば?
何をしているとき?
どんなもの?
どんな状況?
誰と?
どこで?
私は、自分自身が自分自身にこのことをいつも問いかけているため、仲間と飲んでいるときもいつもこのような疑問を投げかけて友人たちの頭の中の答えを知りたいと願ってるが、なかなかこれが簡単そうで難しい。
もしかすると、みんな私ほど興奮することを望んではいないし、精神的な高揚や満足というものをそれほど探し求めてはいないのでは?と感じることが多い。
少なくとも私が興奮することは少し(いやもしかすると大きく?)他の人たちとは異なるようだ。
まあ、いわゆる変態なのかもしれない。
現代社会において一般的に多くのひとは、アドレナリンが分泌されるような興奮やそのような状況をさほど必要としていないという現実がある。
人間が生物として、危機的状況においてアドレナリンが分泌され、興奮状態になる必要があったのは、命がけで食い物を得るために猛獣と闘ったり、戦争などで闘って生き延びる必要があった時代の名残りというか、生物として生き延びるための本能的なスペックだ。
#はじめ人間ギャートルズ
日々マンモスと闘う必要のあった?「はじめ人間ギャートルズ」の世界では必要だったものかもしれない。
平和な世の中を、普通に、過度なストレス無く、心地よい緩やかさでずっと生きて行くことができるとすれば、アドレナリンが分泌されるような危機的状況は殆ど無いわけだし、その必要も無い。
私自身も、この歳になって常にテンションアゲアゲのアドレナリン全開を望んでいるということはない。
そんな元気もないし、無理してそんなことをしていたら早死にしそうだ。
しかし、自分の心の中に、何かテンションの上がる要素があるとすれば、それは間違いなく「闘争」つまり「戦い」と関わりのあることに違いない。
生きて行くことそのものを闘争であると捉えているひとは少数派かもしれないが、やはり私は闘争のために生まれてきて闘争のために生きていると感じざるを得ない。
最近、何人かの経営者の方とお話しをしていて、ビジネスに強烈な情熱を傾けている方には同じような特性があるように感じた。
そういう人はビジネスが闘争であり、それが人生そのものなのだ。
普通の人は、闘争の必要が無い世の中でストレスの多い闘争をわざわざ望まないだろう。
闘争=戦闘ではない。
もし、生物的な危機が何らかの形で自分の身に降りかかってくることがあれば、普通は逃げることを先に考える。
ちなみに私にとっては、逃げることも闘争のひとつだ。
生きること=生き延びること=死なないこと・・・必ずしも危機に真正面から立ち向かわなくとも、たとえ逃げても、逃げおおせて生き残こることができれば人生のサバイバルゲームでは勝利と言えるのではないか?
望むと望まないとに関わらず、危機に直面したときには、アドレナリンが分泌され、それは火事場の馬鹿力的に、闘うか逃げるかに有効に機能する仕組みになっている。
闘うか?逃げるか?の究極的な選択を迫られるような敵や状況に直面し、極度なストレスに晒されるような状況に陥らないように生きることが本来求められることなのかもしれないが、健康で精力的に生きて行くためにはある程度の興奮による適度なアドレナリンの分泌が必要とされるようだ。
つまり、必要な場面が少なくなったアドレナリンは、全く出ないと健康を損なうのだ。
そのせいなのかどうかは知らないが、この平和な世の中では、人為的にひとを興奮させるアトラクションが沢山ある。
絶叫マシンや、スカイダイビング、バンジージャンプなどにわざわざお金を払って恐怖を経験するものだ。
#ナガシマ スチールドラゴン2000
これが健全なのかどうかは判断できないが、少なくともお金を払ってでも疑似恐怖体験をしてみたいというひとが多いのは事実だと言える。
闘争に生きる私の場合、日常で興奮することには以下のような闘争に関わるものに集約される。
1)モノや道具に関わること
クルマやバイクといった乗り物=鉄の馬に関わることはテンション上がる。
自分の好きなクルマやバイクは、見るだけでも興奮するが、実際に所有したり、乗ったり、いじったりするのはさらに興奮度を高める。
#ポルシェ993
男の子というのは、だいたい乗り物が好きなものだが、これは男性の闘争本能が関わっているのかもしれない。
自転車でもロードやマウンテンバイクといった競技用のマシンには興奮するが、ママチャリや実用車にはあまり萌えない。
#TIGチタンフレームロードバイク
鉄の馬=バイクやクルマは、高性能でカッコイイほど興奮する。
#カワサキGPz900Rニンジャ
当然、武器関係は何でもテンションが上がる。
子供の頃から武器マニアで今でも武器コレクターだ。
ただ、収集の範囲はひとりの人間が運搬可能な大きさのものに限られている。
銃であれば、小銃、ライフル、サブマシンガンあたりまでで、重機関銃やバズーカなどは収集対象に入っていない。
#GUNSLINGERGIRL #ガンスリンガーガール
武器収集癖に関しては、霊力の強いひとに言わせると、前世や守護神からの相当強い影響が見られるようだ。
例えば、前世で武器を持たない状況で殺されたりしたとか・・・そういう悲しい話だと思われる。
鉄の馬と武器に共通することは、ハンドルを握る、ナイフの柄を握る、銃やライフルのグリップを握る、といったように自分が握ってそれを操作することによって戦闘能力が高まるという共通点がある。
また、どちらも操作を間違うと命に関わる危険なものだ。
#日本刀 #キルビル #アサシン
同じ刃物でも戦闘用でないもの、包丁やハサミなどはそれがどれほど良いものでもあまり興味が持てない。
2)仕事(ビジネス)に関すること
自分にとって仕事は闘争に他ならないとうことがよくわかった。
故に仕事を引退してリゾートでのんびりと老後を過ごすといったイメージには全く憧れを抱けない自分がいる。
興奮できる仕事=闘争とは、少数精鋭で高度な経営戦略や戦術や武装によって、通常では立ち向かえないような大企業と互角に闘うこと、また成熟していないニッチな市場にいち早く参入することで圧倒的に市場を制圧することなど、いわゆるビジネス上は常に付きまとう競合と制圧という戦いの日常がテンションをあげてくれる。
#アレキサンダー大王
ビジネスにおける闘争は、最終的に領土の大きさ、つまり市場シェアの獲得がゴールとなる。
いち早くひとが目を付けていないブルーオーシャン市場に参入し、そこで圧倒的なシェアを持つ大国を築くために人知を割かなければならない。
既に大国を築いている大企業の一員として、その管理を行う仕事には魅力を感じない。
それは所詮、自分ではない誰か王の既に築きあげた王国であって、自分のものではないからだ。
その強大な王の力を借りて、その看板で新たな領土を開拓するベンチャーな仕事というのには、まだ少し面白みがあるが、やはり成功したとしても所詮自分の領土ではない。
投資は・・・?
投資は自分にとって、サバイバルの為のツールなので、小ぶりで性能の良い投資商品は案外テンションが上がるかもしれない。
お金そのものにも興味は持てないが、ツールとしての魅力はあるかもしれない。
3)恋愛や人間関係に関して
恋愛や人間関係では、気のあった仲間とのなれ合いではなく、お互いに切磋琢磨し合える刺激のある関係に惹かれる。
人生そのものが闘争であるとすれば、親友も恋する相手も、共に戦える仲間であってほしいと思う。
#映画Mr.&Mrs.スミス
異性との関係では、共に戦うばかりではなく、お互いが羽根を休めることのできる相互理解と癒しも必要だが、基本はお互いを高め合うことができる人間関係でありたいと思う。
恋愛も友情も、自分がソウルメイトだと思えるパートナーとの出会いや関係はエキサイティングであり、それは運命と言うものにも大きく左右される人生における闘争の要素だと感じる。
人生の闘争を勝ち残っていくためには、それに相応しいベストなパートナーが不可欠だ。
人間は道具でも機械でもないので、スペックでは計れない精神的な要素や心の繋がりなど観念的で目に見えない要素を自分が感じ取れなければベストなパートナーと巡り会うことは難しい。
そして、人間の心は揺らぎやすく常に動いているため、勘違いやすれ違いによって容易に裏切りも発生しやすく、心で繋がると言うことは本当に難しい事だと思う。
人生の闘争におけるもっとも強力でリスクの高い武器といえるのは、もしかすると人間のパートナーということなのかもしれない。
だとすれば、それが手に入ったときが人生でもっとも心のテンションが上がる時なのかもしれない。
結局、わたしの個人的な趣味嗜好の話に落ち着いてしまったが、心のテンションが上がるポイントというのは人それぞれであり、そういったポイントが見つかると人生はより充実した楽しいものになるのではないかと思う。
今年ももうすぐ終わりだが、みなさんは沢山テンションの上がるような出来事や経験ができただろうか?
しかし、「平成最後の」なんちゃらってのは、じつはあまり盛り上がらない感じがするのは私だけだろうか?