馬鹿は遊びが大好きで、心の赴くままに遊んでなければならない。
そして誰かが広めた遊びに加わるのではなく、常に新しい遊びを提供する側でなければならない。
クリエイティブの世界は、自ら何かを生み出す「アート」と、クライアントの依頼によって何かを作る「デザイン」に分類されるそうだが、仕事においてもアート的な仕事とデザイン的な仕事があると言えるだろう。
馬鹿道の世界では、ひとに言われてする仕事ではなく、自発的に自分の意志で仕事を生み出す「アート的な仕事」に注目したい。
仕事を作り出すというのは難しい。
以前に書いたことがあるが、「やるべき事」「やらなければならない事」の違いをもう一度考えてみなければならない。
https://ameblo.jp/saruahi/entry-11968833593.html
「やりたい事」が必ずしも「やるべき事」ではないので、「やりたい事」だけを求めていても「やるべき事」は見つからない。
「やりたい事」だけをやりたいように好き勝手にやっているだけの馬鹿はただの馬鹿で終わってしまう。
少なくとも「遊びをクリエイトする天才」である馬鹿道の達人は、今ある常識や「やるべき事」に忠実な普通の賢い人たちと比較して、既成概念に囚われない分「やるべき事」にたどり着ける可能性が高いように思う。
しかし、突拍子もない新しい発想は、往々にして人々に受け入れられにくい。
特に子供の頃に、そういった貴重な馬鹿の才能を発揮してしまうと、親や学校の先生や、友人といった社会から奇異な目で見られ強い反発を受けることになるだろう。
場合によっては、その本来であればクリエイティブな才能として認められるべき馬鹿さによって、子供は傷つき、トラウマを持ってしまうこともあり得る。
私自身は、現実にそれを経験している。
トラウマほどではなかったが、普通に親や周りの人たちに認められたいという気持ちが強かったので、中学以降は馬鹿能力を封印した。
封印したといっても、封印後もその溢れんばかりの馬鹿力は隙間から結構漏れ漏れだったのか、周りの人たちから比べれば相当馬鹿だったような気がする。
最終的に自分の馬鹿力を完全に解放できるように思えたのは、ようやく50歳を超えてからかもしれない。
40年も自分本来の馬鹿を封印してきたのかと思うと今更ながら驚きを隠せないと共に悲しくなる。
本来自由でクリエイティブな馬鹿だった子供が、その馬鹿を取り戻すことの難しさを改めて思い知る。
反面、運良く馬鹿な自分を取り戻せた自分は幸せだとも感じる。
それは意図したことではなかったが、自分に与えられたものをことごとく破壊し、捨て去って最後に馬鹿な自分が残った。
クリエイティブな馬鹿であるためには、同時に過激な破壊者である必要があるということに気付かされる。
馬鹿は何でもぶちこわす。
特に、完成度の高い、だれもが信頼するシステムや風習や常識、そしてそれによって成り立っている組織や社会。
そんなものが、馬鹿にとって最もぶちこわし甲斐のあるものだといえる。
強固であればあるほど、強大であればあるほど、さらに破壊欲は高まる。
昔、知り合いのお兄ちゃんで、天才的にプラモデルを作るのが上手いひとが居たが、そのお兄ちゃんは、完璧に作った作品を最後は全て燃やすと言っていたのを覚えている。
「エロスとタナトス」、「生と死」が同一であるように、「破壊と再生」もひとつのものなのかもしれない。
馬鹿道において、理想的なクリエイターは、その馬鹿力を発揮するために「良き破壊者」でなければならない。
相当な馬鹿でなければ、完璧に出来上がったものや、ましてや自分が苦労して作り上げたものをぶちこわすことはできない。
しかし、それができなければ、世の中のリーダーとなりうる本物の馬鹿は覚醒しない。