最近はテレビをつけると、「集団的自衛権」を巡る議論のばかりが取り上げられているが、なぜここに来てこの議論がこんなに白熱しているのだろう?
正直なところ、「集団的自衛権」というものがいったい何で、いったい誰が何を議論して決めなければならないのか?焦点が全く理解できず、分からない事だらけだったので、先週くらいまであまり興味すらわかなかった。
しかし、よくよく調べてみるとこの議論は、たとえ我々国民ががどうすることができないとしても、黙ってスルーしてよいものでは決してないということは理解できた。
はっきり言って、スルーするとやばいネタです。
将来、必ず「ああ、こういうことだったのか」と理解できるときが来るような気がする。
本当の悪魔というのは、決して悪魔だとわかるそれらしい格好で現れないことを肝に銘じるべきだ。
集団的自衛権(しゅうだんてきじえいけん)とは、英語で「 right of collective self-defense」と呼ばれ、他の国家が武力攻撃を受けた場合に、直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利だそうだ。
その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある。
なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行い、中立国の地位を捨てる必要があり、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは、戦時国際法上の中立義務違反となるらしい。
この「中立国の地位を捨て、宣戦布告を行わなければならない」というのが結構悪魔的だ。「集団的自衛権」なるものは、国連憲章第51条で加盟国に認められている自衛権のひとつであり、ある国が武力攻撃を受けた場合、これと密接な関係にある他国が共同して防衛に当たる権利だとされている。
これに対して、自国が直接的に武力攻撃を受けた場合に発動する自衛権を「個別的自衛権」といい、現在日本に存在する自衛隊は、現行の日本国憲法がその第9条に於いて「戦争の放棄と戦力・交戦権の否認」を定めているにも関わらず、「自衛のための必要最小限の武力の行使は認められている」と解釈されることによって「個別的自衛権」行使のために存在しているといえる。
しかし、今回議論されている「集団的自衛権」については、日本国憲法が容認する自衛権の範囲を超えるという見解が一般的であり、「集団的自衛権」の行使を容認しうるように憲法を改定すべきかどうかと言う議論がなされていると考えられる。
今このことがこれだけ騒がれて議論されているのがなぜかというと、おそらく憲法を改定しようがしまいが、この「集団的自衛権」の行使については、年内に行使できるようにしなければならないという時限性があるからだと思われる。
賛成・反対という議論の前に、我々国民が理解しておかなければならないことは、果たして国民の大半が反対したとして、国による「集団的自衛権」の行使容認を止めることができるのだろうか?ということ。
もし阻止できるとすればどうやって阻止できるのか?ということではないだろうか?
今回の「集団的自衛権の行使容認に向けての憲法改正」という話しの流れは、昨年の「特定秘密保護法案」と似ているし、反対派が多かったにも関わらずなし崩し的に国会で可決され、そのことを知らず知らずのうちに国民は受け入れ、そして忘れている。
普通にスルーしていると、間違いなく「集団的自衛権」は容認される事となるだろう。
「安倍首相の方針」
日本は戦後70年近く、一貫して平和国家としての道を歩んできました。これからもこの歩みが変わることはありません。しかし、平和国家であると口で唱えるだけで私たちの平和な暮らしを守ることはできません。私たちの平和な暮らしも突然の危機に直面するかもしれない。そんなことはないと誰が言い切れるでしょうか。テロリストが潜む世界の現状に目を向けたとき、そんな保障はどこにもありません。政府は、私たちは、この現実に真正面から向き合うべきだと私は考えます。
平成26年5月15日 安倍内閣総理大臣記者会見 - 首相官邸ホームページ
国民が国家に対する集団的自衛権どころか個別自衛権すらを持たない国が、他国に対して集団的自衛権を持つというのは極めて危険な方向性だと個人的には思える。
日本において、国民の安全は、警察と自衛隊、法と規制を管理する為政者と、さらに実態としてそれを司る米国によって維持されているものであり、我々国民は個々には何の武器も持たないし、何もできない。
一方、アメリカ合衆国という国は、国民が銃を取って革命を起こす権利を憲法で謳っている。
そのような強力なバックボーンもつアメリカ合衆国が振りかざす正義には重みがあり、国際世論は反論しづらい。
今回の「集団的自衛権」議論について、仮に日本が集団的自衛権を行使できないとしても、もし日本が武力攻撃を受けた場合には、世界の警察であり、我が国を実質的には司るアメリカ合衆国が、間違いなく集団的自衛権を行使してくれるはずだ。
では、同盟国であるアメリカ合衆国が武力攻撃を受けた場合にはどうなるだろう?
米:「あんたらは助太刀せんのか?」
日:「いやいや、うちの国は平和憲法によって武力介入は禁じられとるんで、申し訳ないけどそれはできんのですわ・・・。」
米:「何をたわけたことを言っとるんじゃ!そんな身勝手が通用する思っとんのか!憲法の解釈なんか変えてしまえ!」
というようなやりとりがあったかどうかはわからないが、もし私がアメリカなら当然そういう主張をする。
アメリカと日本はジャイアンとのび太の関係と言ってよい。
所詮、ジャイアンとのび太の関係なので、のび太が助太刀したところで戦力は知れているし、結果は変わらない。
しかし、のび太はジャイアンには逆らえない。
中国の武力拡大が、アメリカにとって脅威となりつつあるのは事実だろう。
今回の「集団的自衛権議論」を分かりやすくするためには、アメリカ軍が中国に攻撃されるケースを想定するのがいちばん手っ取り早い。
もし、そのような事態が発生したら自衛隊はどうするのか?
オトナの話的には、「そりゃー何もせんわけにやーいかんでしょー」って事になるのでしょうが、そうすれば間違いなく、日本は戦争に巻き込まれる。
「集団的自衛権」の発動には、宣戦布告が必要なので、たとえ中国が日本には何に危害も加えていなくても、「味方の敵は敵」と見なし、宣戦布告することで、正式に日本は中国の敵になれる。
全く有り難いことだ。
今のところ日本が助太刀をしなければならない対象国はアメリカしか思い当たらないが、「集団的自衛権」の概念で言えば、もし日本と中国が友好な外交関係にあるとして、中国の船や飛行機が米軍から攻撃を受けた場合には、自衛隊は米軍も攻撃できることになる。
このように、「集団的自衛権」をオトナの理論で受け入れることは、どのように転んだところで将来間違いなく日本人が戦争に巻き込まれる可能性が高まる極めて政治的な道具と言える。
ジャイアンとのび太の関係において、ジャイアンが攻撃を受けたときに非力なのび太が助太刀をして玉砕するよりは、そもそもそのような攻撃をジャイアンが受けないような外交政策を取ることがベターだろうし、もし戦わなければならないとしたらドラえもんのポケットから何か強力な武器を手に入れる必要がある。
それこそモビルスーツか、ナイトメアフレームのような他国の持ち得ない圧倒的に優れた兵器が必要になるだろう。
日本の経済が行き詰まっているとすれば、そんな魔法のような兵器が生み出されることはない。
アメリカが欲しているのは、真面目で優秀な日本人兵士であり、自国の兵器を上回るような優れた兵器を日本が開発することではない。
ブラック企業と呼ばれる会社が、自社の売り上げと利益改善のために理系文系職種に関わらずありとあらゆる社員を営業に叩き出すごとく、日本というブラック企業も国民を戦争に駆り立ててかろうじて国益を確保するのかも知れない。
人材という資源が、豊富に余っていることは事実だ。
今「集団的自衛権」の問題をスルーするということは、我々や我々の子供たちが、将来(下請けの)兵士として戦争にかり出されることを受け入れるということに等しい。
もしくは国土が戦場となる覚悟があるということにもなる。
普通の国ならば、この局面では間違いなく暴動になる。
しかし、そうならないのが日本という国の「完成された茹でガエルさ」を物語っている。
そんな国から逃げだそうと考えることは、果たして間違った判断なのだろうか?
『MEDIA WATCH JAPAN』というサイトが、この集団的自衛権を巡る議論について、各メディアの報道も取り混ぜながら分かりやすく焦点を解説してくれているのでお読みになって考えてみて欲しい。