遊びなれたオトコ&オンナ | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

「ちょい悪おやじ」という言葉が流行りましたが、女の人にとって、「遊びなれたオトコ」というのは魅力的なものなのなのでしょうか?


そもそも、「遊びなれたオトコ」、「遊びなれたオンナ」ってどんな定義?


これは、オトコとオンナの恋愛上の表現として限定すべきだと考えています。


そうでないと、「遊び」というものは世の中にいっぱいあるので、定義が拡散してしまいます。


つまり、「恋愛」=「遊び」としての経験値が高い人のことを、「遊びなれたオトコ(オンナ)」と呼ぶのだとすれば多少わかりやすくなるような気がします。


しかし、実際には「恋愛」≠「遊び」ですので、ここで言う「遊びとしての恋愛」は俗にいう「オンナ遊び」とか「オトコ遊び」というものでしょう。


さて、それでは「オンナ(オトコ)遊び」とはどんな「遊び」なのでしょうか?


「オンナ(もしくはオトコ)と快楽的な楽しいひと時を過ごす大人の遊び」?


「不特定多数の異性との自由恋愛」?


基本は、「男女の関係だが、恋愛ではなく遊びである」というドライな部分にこの「遊び」のエッセンスは集約されると思います。


このように論理的に考えると、「遊びなれたオトコ(オンナ)」というのは、そういったドライな概念の「オトコ(オンナ)遊び」というものを、よりたくさんこなしてきた人たちのことを指すと言ってよいのではないでしょうか?


しかし、このように単純に定義してしまうと、「遊びなれたオトコ」や「遊びなれたオンナ」という人種は、人間的にどうしようもない人たちに限定されてしまいます。


「フーテンの寅さん」ではありませんが、「遊び人」という表現になると、恋愛に限定されませんが、あまりいいイメージはありません。


どうも「遊びなれた大人のひとたち」の世界というものは、そう単純なものでは無さそうです・・・。


実は、「遊び」という言葉よりも「慣れた」という言葉に重要性が秘められているように思われます。


「慣れる」ということに関して、回数に勝るものはありませんが、同じ100回この「遊び」と言われるものを経験したひとの習熟率は個人差があるはずです。


これは、「銀河英雄伝説」に出てくる宇宙での艦隊戦と同じで、「数に勝る戦術なし」です。


ところが、「ヤン・ウェンリー」のような有能な指揮官はときにその理論を「戦術」によって覆すのです。


ということは、「慣れる」部分には戦術的な要素が含まれており、その部分のクォリティーは個人の才能や努力に依存するのだと言えます。


「遊びなれたひと」が、単に回数だけで「慣れている」ように見える場合と、回数ではなく「技術と戦略」よってそのように評価?される場合とでは「遊びなれ」のクォリティーは随分と異なってくるに違いありません。


まだ、この時点において「遊びなれたオトコ」が果たして一般的に女性にとってポジティブな魅力を持っているのかどうか?という最終結論は出ていませんが、Gにとってこの戦略的「遊びなれ」には少し興味をそそられます。


もしかすると、自分も「遊びなれたオトコ」になれるかも!みたいな、かすかな希望が見えてきます。


実は、こういう私でも時々は「ちょい悪おやじ」という風に見られることもあるのです。


本当の女の人の気持ちは(このことに限らず)私にはわかり兼ねますが、自分自身はこの「遊びなれたオトコ」なるものに対して密かな憧れがあるような気がします。


自分がオンナなら、「遊びなれた、男性とスマートにカッコよく付き合いたい!」と思うからです。


粘着質の恋愛でドロドロになるのはいただけません。


もちろん男性サイドから見て、「遊びなれたオンナ」に対する憧れも無くありません。


酸いも甘いも色々経験して、自分の求める部分や相性などを知り尽くしているであろう「遊びなれたオンナ」、もしくは、実は遊んでいないけど「遊びなれた」ように見えるツンデレのひとなど、どちらも魅力的です。


「恋愛というものを遊びとしてさらっとスマートにこなせる」というのが「遊びなれた大人」の条件なのだと思いますが、残念ながら自分自身にはその才能が無いことがわかっています。


それは、自分にとって「恋愛が遊びだと面白くない」からなのです。


本気でないと面白くないのです。


恋愛は嫌いではありませんが、遊びでできるものではありません。


毎回エネルギーをかなり消費します。


そんな私は、残念ながら何度恋愛をしても、「遊びなれたオトコ」にはなれません。


バブル期は、言ってみれば偽モノの「遊びなれたオトコ」と「遊びなれたオンナ」がしのぎを削りあっていた時代です。


当時は、誰もが実際の経験値よりも無理をして、自分が如何に「遊びなれているか」を誇示しようとしていました。


遊びなれていないと恥かしい時代でした。


今の年になって、時々ホンモノの「遊びなれたオトコ(やオンナ)」に出会うことがありますが、そこで痛感するのは、ホンモノの「遊びなれたオンナ」と張り合えるのはホンモノの「遊びなれたオトコ」だけだということです。


結論・・・とは言い切れませんが、「遊びなれたオトコ」と付き合うほうが圧倒的にオンナのひとにとってはメリットがあるように思います。


ただ、その場合には愛情というものを相手に期待してはなりません。


資産運用のプロフェッショナルに愛想を要求してならないのと同じかも?しれません。