2011年3月11日、ロンドンで号外が配られました。
そこには荒川の地元、茨城県の信じられない様子が新聞一面に載っていました。
東日本大震災の悲惨な映像には、ロンドンでも衝撃が走りました。
荒川は茨城県の変わり果てた写真を見て、海沿いにある自分の実家は間違いなく津波に飲まれて無くなってしまっただろう、と絶望しました。
すぐに何度も何度も両親に電話をかけましたが、繋がりません。
もしかしたらもう死んでしまったのかも…。
最悪の事態を想像しながらも、信じて電話をかけ続けました。
幸いにも何度目かの電話で母に繋がりました。
みんな避難して無事だと言うことを聞き、ほっと胸を撫で下ろしました。
しかし、家は?
今は避難していて状況が誰にもわかりません。
もしかしたら流されてしまったかも…。
家がないと生活できない。
これからどうする?
両親を自分が支えなくては…!
状況がわからないけど、とにかく一大事。
この出来事をきっかけに荒川は日本に帰ることを決めたのです。
しかし、そう決めたことを母に伝えると
「帰ってきても今は避難しているのみで何もできない。こっちに帰ってくるよりロンドンで仕事していた方が良い。」
と言われました。
不安に思いながらも、結局ビザが切れるまで残ることになりました。
もちろん、もし人手が必要ならいつでも帰るつもりでした。
最終的には震災の1年半後、日本に帰国することになりました。
《キルガーで働いた証明書、2年半の在籍となった》
-日本に帰国、そして次のステージへ-
奇跡的に実家は、床上浸水のみの被害で流されることなくその場にありました。
しかし、思い出の土地は様変わりしてしまいました。
幼少期に遊んだ砂浜は波で削られて無くなり、地元の唯一の観光スポット、二ツ島は津波と崩落により一ツ島に…。
思い出の場所をもう二度と見ることは出来ないショックは今でも消えません。
荒川が帰国した頃には、両親の生活も通常通りに戻っており、良くも悪くも荒川の出る幕はありませんでした。
帰国後しばらく茨城県の地元(茨城県にはテーラーの仕事が無かったため、仕方なく牛丼屋)で働いていましたが、テーラーの仕事をするために東京で働くことに決めました。
この東京での就職が、テーラーとしての新たな一歩を踏み出すきっかけとなります。
-ロンドンでの修行を振り返って-
憧れの土地での4年半の生活は、荒川の人生の原点となりました。
かつて世界の中心であり、ファッションの中心であったイギリスは、人種や文化的な多様性が浸透しています。
それが日本では感じにくい自由度の高さのように思い、とても居心地が良かったです。
荒川は高校卒業後、全く畑違いな道を目指しました。
よく言われるのが、
高専を出たのになんで?
良い企業に就職できたのに勿体ない。
デザインなんてなんのためになるの?
職人じゃ食べていけないよ。
本来、高専に行ったらエンジニアとしての勉強をし、5年後卒業してプログラマーとして良い企業に就職する。
これが”普通のルート”ではないでしょうか。
みんな育てられた親は違うのに、最終的なゴールは同じ方向に向けられている。それがその人にとって”幸せになれる一番のルート”だと思うからです。日本が画一的なように思うのはこの人生観のせいではないでしょうか。
荒川も、高専に行ったきっかけは親に言われたからでした。
しかし、途中で自分のやりたいことを見つけた。
自分がどうなりたいかは自分で決めたい。
好きなことを仕事にしたい。
全然違う道に進むことに対して怖い気持ちはありませんでした。
自分が決めたことに責任を持ち、自分はやるぞ!と信じていました。
そんな荒川の決めたルートを心配しながらも後押しくれた両親には本当に感謝しています。
そして、荒川が選んだイギリス、ロンドンは荒川を受け入れてくれました。
ロンドンカレッジオブファッションの卒業制作は「Diversity」いうタイトルの作品でした。
ロンドンの多様性に感銘を受け、その気持ちを形にしたかったのです。(作品が残っていればお見せしたかったけど、写真すらみつかりませんでした)
ロンドンにいるといろんなものが自分の中で混ざっていきます。
デザイン・考え方・古いもの・新しいものが自分の中で混ざって斬新なアイデアが生まれます。
自分次第でいろんなものを見つけられるのです。
今も大好きなロンドン。
もう一度ロンドンに住みたい。
今でもその夢を描きながらがんばっています。
続く。
【サルトルリサルタス公式HP】
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