高校1年から2年に上がる時、自分の将来の選択をするために、就職なのか進学なのかとコースを選べます。
私は入学した時に成績で進学コースに入っていましたので、大学で学びたかったので、そのまま進学コースを希望しました。就職コースは松、竹、梅組です。
就職を希望する友人とはクラスは別れてしまいましたが、新たな出会いにも胸をワクワクさせていました。
高校2年生で文化祭、女子高なので、来たいと思ってる男子はたくさんいてチケットは実はプレミアムだったらしいです。(笑)
私は中学でも男子とも仲が良かったので、文化祭に呼んでくれた男子にお返しで来てもらったことを憶えています。
その子(おじさんとおばさんですが)とはいまだにお友達付き合いしています。
お互いに家庭を持っておじさんとおばさんですが(笑)、昨年末メールをくれました。
嬉しかったな~どうやら彼が浪人した時に私が励ましの手紙を送ったのですが、彼がその手紙を持っていてくれて今の自分があるのはあの時のさりーさんの励ましのお蔭とか言ってくれて~頑張ったのは彼なんですけどね!(笑)
そんな高校2年生の文化祭を無事に終えた秋を満喫していた頃、忘れもしません10月中旬でした。
朝、起きると左足の感覚が鈍くて触っても感覚があまりありません。当然くにゃりとしてしまい、慌てた私は落ちたベッドの傍から母を大声で呼びました。
そこから私の脊椎の病気との人生が始まったのでした。
高校時代に脊椎の手術を2回受けました。
(1回は高校2年時、もう1回が高校3年時に)
当時、母のお友達のご主人様が入院していた先の先生が整形外科でも有名な先生とかで、すぐに連れていかれました。
その日はたまたまその先生の診察日ではなかったのですが、その時に診察してくれた先生に今も診て貰っています。
その後、お目当ての医師に診察してもらったところ、椎間板ヘルニアが急激に悪化していて椎間板から出ている神経が脊椎を圧迫して感覚が鈍っているとのことでした。
そういえば当時道の真ん中を歩いていても、気づけば道路の端っこを歩いていたという状況でした。平衡感覚もなくなっていたのでした。
即、入院を言われ、2週間の入院となりました。
「2週間集中的にリハビリをしてみましょう」と言われて、生まれて初めての入院です。
心細いのと、自分の身体がどうなっているのかという葛藤で毎日ドキドキしていました。
そして、2週間後リハビリしていても、検査の結果があまり良くなっていなかったのです。
その時に医師から「手術」と初めて言い渡されました。
その時になって初めて事の大きさを感じました。
今では椎間板ヘルニアの手術はそんなに大変ではないのかもしれません。
その当時、今から40年近く前では大変な手術でした。
私はその時、初めて親に助けて貰えない、自分で切り開かなければという状況になりました。
普通高校生なら、寝食も親に守られて何の不自由もなく暮らしていたはずです。
ところが、いきなり自分で自分の身体に責任を取らなければいけなくなりました。本当にどうしたらいいのかわからず、親にも守って貰えない状況にブラックホールに吸い込まれるようでした。
ましてや年頃の娘が、背中に大きな傷跡ができる、これを受け入れるには私にはまだ若過ぎました。
それも背中から切るので、神経に少しでも触れたら一生車いすの生活になってしまうとか、沢山の話を両親を呼ばれてされました。手術への承諾する書類を何枚も記入したのを覚えています。
未成年でしたから親も記入していましたね。
ただ、悩んでる時間はもう残されていなかったのです。
筋電図という検査をしても、造影剤を入れたレントゲンをしても、どの検査をしても結果は全て、手術しか道はないというものを示すばかりでした。
失敗したら一生車いすで結婚も難しくなるだろうと、全てを私自身が覚悟して手術を受けることを決めたのが高校2年生の11月半ば、それから検査を重ねたり、準備をしたりと私の周りの状況は大きく変わりました。
昔は腰の手術をした後は自分の体型にあわせて作ったギプスベッドに数週間寝たきりというのが、お決まりのコースでした。
今思えばカメの甲羅みたいでした。
そして1回目の手術は高校2年生の12月19日に行われました。
全身麻酔をかけられて、看護師さんと数字を一緒に数えていきますが、突然真っ暗闇になります。
今まで3回、経験しましたが、何度経験しても全身麻酔は嫌ですね。
つづく