<社会的自我>

<社会的自我>について、ドラッカーは<もうひとりのキルケゴール>で「“時間”の中に生きる“社会における市民”」と表現し、次のように解説しています。

「時間における実存とは、現世における市民としての実存である。時間における実存として、人間は食べ、飲み、眠る。征服するために、あるいは自らの生命を守るために戦う。子供や社会を育てる。成功し、失敗する。そして、時間における実存としての人間は死ぬ。時間における実存としての人間は、死んだ後に何も残らない。したがって、個人としての人間は、時間における実存としては存在しない。個々の人間は種の一員にすぎず、連綿としてつづく世代の鎖のなかのひとつの環にすぎない。種そのものは、時間において独自の生命をもち、独自の属性をもち、独自の目標をもつ。しかしその成員は、種を離れては、いかなる生命も、属性も、目標ももつことはできない。個々の人間は、種の中にあって、種を通じてしか実存することはできない。そして、種という鎖には始まりと終わりがあるが、鎖を繋ぐ環のひとつひとつは、過去の環と未来の環を繋ぐだけの存在である。鎖から外されてしまえば、スクラップにすぎない。時間という歯車は回り続けるが、そのひとつひとつの歯は、取替えや入替えができる。個人の死が、種や社会を終わらせることは無い。単に、その人間の時間における生活を終わらせるだけである。時間においては、人間の実存は不可能である。可能なのは、社会の存在だけである。」

<霊的自我>

<霊的自我>について、ドラッカーは<もうひとりのキルケゴール>で「“永遠”の中に生きる“精神における個人”」と表現し、次のように解説しています。

「永遠の領域、すなわち精神の世界においては、そしてキルケゴールの言う“神の目から見れば”存在しないのは、社会のほうである。存在することが不可能なのは 社会のほうである。永遠の領域で実存するのは、個人のみである。永遠の領域では、個々の人間が独自の存在である。孤独の内に、まったくの孤独のうちに、隣人もなく、友人もなく、妻や子もなく、みずからの精神と向き合う。時間の領域、すなわち社会という領域では、個々の人間は無から始めて終わりを終わりとすることはできない。個々の人間は、先人たちから時代の遺産を受け継ぎ、それをごく短い期間担い、後の人たちに引き渡していく。しかし、精神の領域では、 個々の人間が始まりであり、終わりである。祖先の経験は何ひとつ役に立たない。個々の人間は、恐ろしい孤独の中で、完全に独自の唯一の存在として、みすからとみずからの内なる精神以外には、全宇宙に何も存在しないかのようにみずからと対峙する。」

 <社会的自我と霊的自我における二律背反の関係>

ドラッカーは<もうひとりのキルケゴール>で、「社会的自我(社会的実存)」と「霊的自我(精神的実存)」における<二律背反>について、次のように述べています。

「(1)社会における実存のためには、社会の存続に必要な客観的なニーズが市民の機能と行動を決定しなければならない。しかし、精神における実存のためには、孤独な個たる自分と神とともにある自分の法と規範以外に、いかなる法も規範も存在してはならない。」
(2)社会のなかで実存しようとするならば、社会にとって意味のないこと以外については、いかなる自由もない。しかし同時に、人間が精神の中でも実存しようとするならば、社会にとって重要な問題についてさえ、いかなる社会的な規範も制約もあってはならない。」
(3)社会における実存として、人間は、社会の価値観や信念、報酬や懲罰の世界を現実のものとして受け入れる。しかし、精神における実存、すなわち“神の目から見た”存在として、人間は、社会の価値観や信念の一切を、完全な欺瞞・虚飾・不実・無効・幻想とみなさなければならない。」