5月27日 №464

父ヤコブは彼らに言った。…「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

創世記42章36節

 自分と家族に次々に起る困難に、心底疲れたヤコブのため息が聞こえます。神に捉えられイスラエルになる前であれば、家族を責め、自分を正当化し、疲れることなく頑張ったでしょう。しかし、今はもうできません。

 私たちが抱く失望には、神を「信じているのに・祈っているのに・礼拝に出ているのに・奉仕をしているのに」など、信仰ゆえに出てくるものがあります。これらは、自分の思い通り事が運ばないことへの落胆です。

 それでは信仰とは何でしょうか。「信仰は望んでいる事がらを保証し…」(ヘブル11章1節)の御言葉の理解が重要です。大切なことは、「だれが」望んでいる事がらが保障されるのか、です。
それは、「私が望むこと」でなく、「神が私に望むこと」を信じるのが信仰です。ヤコブの身に降りかかかる出来事は、「彼の望み」でなく、「神が彼に望んでおられる」ことでした。

 奈落の底にいると思っている友よ。そこに神を認めるならば、そこは解放と癒しの跳躍台です。落ち込みが深いほど、バネ(解放の力)は強く踏まれていて、より高く神の御許へ上がる恵みになります。