11月21日 №277

「私のために獲物をしとめて…私に食べさせておくれ。私自身が、おまえを祝福できるために。」     

創世記27章3節

 最期の近いことを感じたイサクは、家長の祝福を兄エサウに授けようと考えています。しかし、この家族の家長には、兄という人間的条件よりも、霊的リーダーの賜物が求められていることを忘れています。

 かつて、彼の父アブラハムは、イサクを霊的後継者にするため、サラ以外から生まれた子たちを遠ざけたほどでした。しかし、イサクがエサウを呼び出し、このことを告げるのに、「神」という言葉は一つもなく、「私(の・に・が)」だけです。さらに、イサクがエサウを選んだ動機が好きな肉料理にあったように、此の期(このご)に及んでも自分の肉の要求に執着していました(25節参照)。   

 若い時、礼拝や集会へと誰が見ても信仰深く見えたのに、晩年に霊的意欲を失った人々を多く見ます。人生の試練は、若い頃よりも老年期に激しくなります。若い時は体力でも試練を乗り越えることができましたが、晩年に頼れるのは「主だけ」です。

 友よ。恵み(神が備え与えたもの)に繋がる信仰から、主御自身に繋がる信仰を今から持って下さい。