10月2日 №227
「その子に手を下すな。…あなたが神を畏れる者であることが、今、わかった。」
創世記22章12節
「主にあらばただ主にあらばそれでよし如何なる明日我を待つとも」(宮崎聖蔵著「されど御名ゆえに」)。アブラハムがイサクに刀を振り降ろす時の心境は、右の歌のようだったでしょう。「主にあらば、主にあらばそれでよし」こそ信仰の知恵です。
神に「明け渡す・献身する」ということは、「イエスを主」とすることで、自分が神に所有されることです。また、「神を畏れる」ことです。
人が生きる上で、「知恵」と「知識」が必要です。両者の違いは、「知恵」は神に関すること。「知識」はこの世に関すること、と言えます。また、両者の関係は、「主を畏れる(知恵)ことは、知識の初め(箴言1章7節)」とあるように、「知恵(霊)」が「知識(肉)」をコントロールするとき秩序が整います。
神は、知識の人以上に知恵の人になることを願っています。知識は人を高慢にし、知恵は神を畏れ謙遜を与えます。
友よ。神を畏れることこそ神が求めていることです。神を畏れることがわかったとき、「手を下すな」との声を聞きます。それは、試練に対する一つの終止符です。試練にも終わる時があります。