7月23日 №149
「この横柄さは、あなたのせ いです。…主が、私とあなたの間をお裁きになりますように。」
創世記16章5節
サライは、「私自身が私の女奴隷をあなた…に与えた」(同節)と言いつつ、自分の罪は認めません。そして、夫のその後の態度が悪いから女奴隷が自分を見下げるのだ、と責め立てます。妻の意見に従った夫も夫ですが、サライの態度には空いた口がふさがりません。
人を責めるのは、自分を無罪とするからです。「もっと祈れ」と他者を責める人は自分が祈らず、「あなたの責任だ」という人は、自分で責任を取りません。そのことを主は、「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9章41節)と、高慢の罪を警告しました。
サライのように、「主がお裁きになりますように」と神を持ち出し、自分を正当化し、他者を責めるのは最悪の証となります。
パウロは、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい」(Ⅰテモテ4章16節)と、まず自分を点検するように諭しました。
友よ。サライに呆れて空いた自分の口こそ、いのちのパンと悔い改めのことばでふさがなければなりません。神の言葉と悔いる心が、人を裁くことから遠ざけます。