7月15日 №141

「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

創世記15章8節

 神の言葉を信じきれない自分を経験します。アブラムも、子が生まれるとの約束を信じきれず、苦悩し、主に問いました。

 信仰は、洗脳ではありません。洗脳と信仰の違いは、「あれを…読むな・聞くな・行くな・信じるな」そして、「これだけ…見よ・読め・聞け」が洗脳です。洗脳は、「それだけしか選べない人」をつくります。信仰は、あれもこれも許されていますが、その中から自分の責任で、あるものを選び取ることです。ですから、信仰には「試みる」ことが許されます。 

 主が、「試みてはならない」(マタイ4章7節)と言われたのは、神の御心を知りながら試すことです。しかし、もっと怖いのは、神の啓示がないのに、「御言葉が与えられた…」と、自分勝手に確信する人です。それらは、自分で作った「自主洗脳信仰」です。「然りを然り、否を否」(ヤコ5章12節)とし、分からないことは分からないと主に問えばよいのです。

 友よ。神に語られても分らないことがあるものですが、それが不信仰ではなく、むしろ問い続けないことが不信仰です。信仰の父アブラムも神に問うたのですから、ましてや、私たちはもっともっと問うべきです。