11月20日 ヨシュア記No198
彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、…帰ることができる。②
ヨシュア記20章6節②
厳しく律法的に見え、かつ赦しが見えにくい旧約聖書の記事ですが、むしろ旧約聖書の方が、より具体的に、救いを見えるように表しているとも言えます。
「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。…ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3章22~24節)。これは、人の救いについての核心の御言葉です。
しかし、「キリストの恵みは支払いがすでに終わっている、あらゆるものがただで手に入れられる。そういう支払い済の費用は無限に大きく、従って、その使用や浪費も無限に大きい」と、ボンヘファーが言いました。
それは、恵みだけを見て、恵みに至った過程を無視するからです。「神は愛なのだから当然だ」と、「神なのに十字架についてくださった」では、恵みの価値が違ってきます。前者は十字架抜きの復活の恵みを欲し、後者は十字架を経由した復活の恵みを受け取ります。
友よ。逃れの町に入っても、「大司祭が死ぬまで、町にとどまらねばならない」との御言葉は、「あなたの肉体が父なる神の御もとに召される時まで、逃れの町(十字架の大祭司主イエスの御もと)にとどまり、いつまでも主に仕えなさい」と置き換えることもできます。