9月4日 ヨシュア記No121

「御覧ください。わたしたちは、今はあなたの手の中にあります。あなたが良いと見なし、正しいと見なされることをなさってください。」

ヨシュア記9章25節

 主の御心を聞かずにギブオン人を受け入れたイスラエルには問題がありましたが、当のギブオン人たちは称賛に値します。現実的に、未信者と結婚した場合などはどうすれば良いのでしょうか。

 パウロはこのことについて、「ある信者に信者でない妻(夫)がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女(彼)を離縁してはいけない。…なぜなら、信者でない夫は、信者である妻(夫)のゆえに聖なる者とされているからです」と述べました。

 ただし、夫(妻)と主イエスは分けねばなりません。主は、「わたしよりも息子や娘(夫・妻も)を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタ10章37節)と言います。これは、「夫や妻を愛してはならない」という意味ではなく、「イエスの次に夫や妻を愛しなさい」という意味です。さらに聖書は、「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」(Ⅰコリ7章16節)と続けます。

 友よ。現実を変えられなくとも、現実を聖なるものとして用いることは可能です。それは、神の介入を求め続けることです。神はイザヤ書五十五章の中で、ひたすら神を求めよ、と語り、「茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となる」(13節)と励ましてくださいます。