8月27日 ヨシュア記No113

賢く立ちまわった。彼らは使者を装い、古びた袋、使い古して繕ってあるぶどう酒の革袋をろばに負わせ、…継ぎの当たった古靴を履き、着古した外套をまとい、  

ヨシュア記9章4~5節

 ギブオン人の使者たちのパフォーマンスは実に見事です。「役者」と「偽善者」は同義語だと聞いた記憶がよみがえります。

 神が人に与えたいのは「聖絶」の恵みです。「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12章14節・新改訳)。神を「見る」とは、「交わる」でもあります。神が「アコルの谷(聖絶)」を用意したのは、神と人が交わる「希望の門」に導くためでした(ホセ2章17節)。

 神と人の同盟は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ1章20節)とあるように、十字架による聖絶を抜きにしてはあり得ません。ギブオン人は、遠い国から来たかのように振る舞いますが、偽善者でした。神の前における最大の偽善は、十字架抜きの救いを作り出す律法主義です。

 友よ。あなたはすでに神に向かって「アバ・父よ」と呼べる神の子なのに、ギブオン人になっていませんか。むしろ、胸を打ち、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と言った徴税人のように、神の前で恥じずに心を裸にしましょう。古びた袋や継ぎの当たった古靴や着古した外套で偽る必要はありません。