8月25日 ヨシュア記No111

その後ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。

ヨシュア記8章34節

 エリコを攻め落とし、アイも滅ぼしたイスラエルは、エバル山で祭壇を築いて礼拝し、律法を読み上げました。

 その中で、「律法の言葉すなわち祝福と呪い」とあります。律法は神と人との「継がりと交わり」、すなわち命の関係を示す祝福の言葉であるはずなのに、なぜ呪いも含まれているのでしょうか。

 神は人に人格・自由意志を与えています。自由な人格があるからこそ愛が存在し、自由を持っているからこそ戒めが必要です。戒めは、神が人を束縛するためではなく、自由にするためです。

 「あなたを愛します」と言う時、その裏側に、「あなた以外の人を愛しません」がなければなりません。主は十戒において、第一戒では主が唯一の神であることを、第二戒では偶像を造ってはならないことを戒めました。祝福は第一戒にあり、呪いは第二戒にあります。律法の祝福と呪いは表裏一体です。

 友よ。「祝福」を受けるには、その裏にある「呪い」も知らねばなりません。どちらを受け取るかは、あなたの責任です。主の恵みの法則は、「神を愛し→自分自身を愛し→隣人を愛せよ」であり、すなわち恵みは「神の愛」から始まります。「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロ3章14節)。