8月22日 ヨシュア記No108

そのころ、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために祭壇を築いた。

ヨシュア記8章30節

 アイを征服した民は、五十㎞ほど北上したエバル山まで上って祭壇を造り、主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。ここで「主のために祭壇を築いた」との言葉にメッセージが秘められています。

 「ノアは主のために祭壇を築いた」(創8章20節)「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12章7・8節・13章18節)とあり、モーセも神から「わたしのために土・石の祭壇」(出20章25・26節)を造れ、と命じられました。いずれも、祭壇は「主のために」築かれました。祭壇は民が神を礼拝するために必要なものですが、神にとっても必要だったのでしょうか?

 祭壇は、「主のために」が大切です。祭壇を築くのは、礼拝のためです。そして礼拝こそ、神が「主」とされることでした。主のために祭壇を築き礼拝することは、神に主権を取っていただくことです。反対に、人が自分のために祭壇を築くならば、それは自分の利益のためであり、人間中心の礼拝となり、ひいては「人のための神」になります。それは偶像の神以上にはなり得ません。

 友よ。あなたの礼拝は主のためですか、それとも自分のためですか。「神を礼拝せよ」とは、「神に主権者となっていただきなさい」ということです。自分のための礼拝は神を殺しますが、神のための礼拝は自分が生かされます。主日の礼拝も、日々の祈りも祭壇です。全ての礼拝、集会、祈り会、家庭礼拝が、主のための祭壇とされますように。