7月25日 ヨシュア記No85

ヨシュアは…誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は、主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い、城門を建てたときに末子を失う。」  

ヨシュア記6章26節①
 
先には、「男も女も滅ぼし尽くせ」と言い、ここでも「エリコの城壁を再建する者の子たちは死ぬ」と言いますが、なぜそんなに厳しいのか、と問いたくなります。

 特に旧約聖書の厳しさは、命の厳しさを教えています。生物的な命は「あるか無いか」であって中間はありません。人の魂の命も同じです。「全ての人は罪の中に生まれ…その魂は死ぬ。しかし、主イエスによる罪の赦しと復活の命によって、人は新たに生まれる」。これ以外に救いはありません。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに…ないのです」(使4章12節)。

 しかし、人が好むのは中間です。なぜなら、真理(神の命)も求めるが、自分の要求(自分の命)も通したいからです。人にはさまざまの判断がゆだねられていますが、最終的な判断を下すのは主御自身です。

 後に、「ベテルの人ヒエルはエリコを再建したが、その基礎を据えたときに長子アビラムを失い、扉を取り付けたときに末子セグブを失った」とあります。その理由は、「かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになった御言葉」(列上16章34節)にありました。

 友よ。この厳しさは、神が命がけであなたを愛しているからこそのものです。まず自分の理由をおいて、「あなたがたは「(神の)然り」を「(あなたの)然り」とし、「(神の)否」を「(あなたの)否」としなさい」(ヤコブ5章12節)。