7月24日 ヨシュア記No84

彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。…ヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。

ヨシュア記6章23・25節

 ラハブがかくまって逃がした斥候たちは、エリコの陥落の時、真っ先に彼女の家に向かい、彼女と家族を保護したに違いありません。愛には愛の報いが、命には命の報いがあります。「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せよ」との主の言葉は、三つの十字架によって表すことができます。

*「主の十字架」……ゴルゴタで主がついた十字架。これは神の私たちへの愛でした。

*「自分の十字架」……「己が十字架を負い我に従え」と言われる十字架。神が人を愛するのは当然(!)ですが、愛は双方が与え合ってこそ豊かな命となります。自分の十字架とは、病気や家族などの人生の重荷のことではありません。「神を愛するとは、神の掟を守ること」(Ⅰヨハ5章3節)とあるとおり、主への服従のことです。

*「降りない十字架」……主に贖われた者は、主の花嫁です。花嫁は夫の喜び・悲しみ・痛みを共有します。主は、救われない魂のために痛みます。主が私のために十字架から降りなかったように、私たちも主と共に、「隣人を愛する十字架」から降りてはなりません。

 友よ。ラハブと彼女の家族が救われたのは、「使者を…彼女がかくまったから」と記されています。命の使者に、彼女も命を賭けました。十字架は、死であると同時に命の交わりです。そうです、自分の命を保ったままでは、相手の命に溶け込めません。十字架は命の始まりです。