7月2日 ヨシュア記No62

彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、…人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。②

ヨシュア記5章12節②

 民が神に導かれて経験したことは、食物の変化一つとっても、歴史を超えた神の大切なメッセージです。

 信仰の成長において、「荒れ野=肉の人」「マナ=乳を飲む幼子」の段階にある人は、主イエスの十字架までで止まっている人、とも表現できます。十字架は神の子にとってかけがえのない大切な恵みですが、そこまでで止まる人は、親に一方的に愛されるだけの子と同じです。その人は、真理ではなく同情を求めます。真理は神を求め、同情は人を求めます。その人は、神から愛されること(赦し・主の十字架)だけを欲し、神を愛する(神に従う・自分の十字架を負う)ことはしません。

 「カナン=霊の人」「小麦や野菜=固い食物を食べる大人」の段階にある人は、十字架を受け取り、復活の命で歩む人です。肉の人はこの世からの同情という食物を求め、霊の人は神に真理の食物を求めます。聖霊に満たされた人の最大の特徴は、御言葉を求めることです。

 友よ。幼子と大人の差は、「十字架までか、それとも復活まで進むか」にあります。罪の赦しの十字架から、神の命に生きる復活までの間にあるのが、ヨルダン川なる「自分の十字架を負うて我に従え」に集約される言葉です(主はこの意味の言葉を四福音書で五回語られました)。原罪(悪性腫瘍)にも肉(良性腫瘍=死に直結しないが弱くする)にも、必要なのは塗り薬ではなくメスです。