3月26日 No117

アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。

ホセア書11章8節

 アドマやツェボイムとは、ソドムやゴモラと共に焼き滅ぼされた所でした。悪の主犯はソドムやゴモラであり、アドマやツェボイムではなかったが滅ぼさねばならなかった、との神の迷う心が聞こえます。

 愛は、単なる平和や喜びだけではなく、アガペーの愛に近づくほど痛み悲しみが伴います。遠くで起きた見ず知らずの人の不幸に同情できても、愛を与えることはできません。その人は自分と一体でないからです。しかし、伴侶や子どもであれば、痛み悲しまねばなりません。なぜなら、一体(愛・命)だからです。

 主がゲッセマネの園で、「この杯を取り去ってください」と言った杯こそ、罪を負い、罪人となるゆえに、父なる神から引き裂かれる苦痛と恐れでした。

 同じく、一人の魂が三位一体の神から離されることは、愛そのお方である神には、「激しく心動かされ、憐みに胸が焼かれる」ことになります。イスラエルは神には「子」であり「一体」です。しかし、人はその痛みを知らないので平気でいられます。

 友よ。ある人が、「愛は…痛みだ・悲しみだ・苦痛だ…」、だから「愛は…喜びだ・感謝だ・命だ…」と言いました。神の厳しい断罪、それをアッシリアへの奴隷、バビロン捕囚として成就させねばならない痛み、それらすべてが集約されたのが、主の十字架です。