<サレプタ聖書メッセージシリーズ>

ヨハネの手紙 No.1 
「いのちの言葉(イエス・キリスト)」
ヨハネの手紙一 1章:1~4節

in 2023/05/07 SUN.
at キリスト教 東京鵜の木教会
Messaged by 清野隆二


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ヨハネの手紙の講解メッセージ
第一回目。

ヨハネの手紙一
1章:1〜4節 まで最初にお読みいたします。

ヨハネの手紙 第一 1章:1節
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの
目で見たもの、よく見て、
手で触れたものを伝えます。
すなわち、命の言について。――

(2節)
この命は現れました。御父と共にあったが、
わたしたちに現れたこの永遠の命を、
わたしたちは見て、あなたがたに証しし、
伝えるのです。

(3節)
わたしたちが見、また聞いたことを、
あなたがたにも伝えるのは、
あなたがたも
わたしたちとの交わりを持つようになるためです。
わたしたちの交わりは、
御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

(4節)
わたしたちがこれらのことを書くのは、
わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 §

アーメン! お祈りいたします。

天の父なる神様、いつもあなたが この御言葉、聖書を通して
語ってくださいますことを、心から感謝いたします。

私達には、なかなか理解できないところ。
次元を超え、またレベル・・いろんなことを超えております
けれども・・
しかし、あなたは、私達に分かるように、助け主である
御霊をくださいましたし、また、何よりも神であられる方が
人の姿を通って、私達のこの世界に来てくださり、弟子たち
と共に過ごし、また、語り、また、「十字架・復活」と目に
見える形で、私達に救いを表してくださいました事を、
感謝いたします。

今日から始まる「ヨハネの手紙」を通しまして、
あなたの命をもっともっと深く、正しく理解することが
できますように、助け導いてください。

はじめに、
イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。

アーメン!

 §

この手紙。
これはさっと読んでもなかなか理解できないところが
いっぱいある手紙かもしれませんですけれども、
これから学んで行くことにしましょう。

まず、この手紙は大体 AD.100年ちょっと前位かな?と、
言われるぐらいの時に書かれました。
著者は、もちろん使徒のヨハネであります。
イエス様に任命された使徒達。いろいろ特徴がありました。
ペテロはって言うと、どちらかと言うと行動的でした。
そして、ヨハネはって言いますと、行動的よりむしろ
内面的でした。
イエス様の胸に寄り掛って、それは誰ですか? なんて
聞いていくような、そのような人でありました。

そのヨハネ・・
イエス様が来られて 弟子達と共に過ごし、また、
世界宣教にと弟子達が遣わされて行きましたけれども、
やがて、迫害が激しくなりました。

特に、64年ぐらいを境に、
60年過ぎからですね迫害がとても激しくなったんです。

そして、ヨハネも実に捉えられて、黙示録の一章に
よりますと「パトモス島」っていうですね、本当に
距離数を測ってみると、600km位、海を越えて
ギリシャの小さな島のパトモス島っていう所に流刑、
島流しにされていたということも書かれてありました。

その流刑が何年になったのか?
それははっきりと書いてありません。

でも、この手紙を書いたのは、
エペソの近くの教会で書いただろうと言われております。
そうします時に、ヨハネは島流しされて、それから
帰ってくる。
それが、何年間島流しされてたかも実はよく分から
ないんですね。
でも、書かれた年代は100年頃だろうと、学者達から
言われております。

そうすると、ヨハネは激しい迫害の中、人々とともに
福音を伝え、捉えられ、何十年かわからないけれども、
そこに捉えられて、そして、帰ってきて、そして、
もう一度今ここにおきまして、自分自身が、今まで
学んだこと・導かれたこと・・
その事を、はっきりと記していかなきゃならないと
思って「ヨハネの手紙」を、第一・第二・第三
という風にして書いていきました。

イエス様との宣教、イエス様の来られたこと。
3年半共に宣教したこと。
弟子達がその後を引き継いだこと。
そして、パウロの活動。
あの事、この事って、いろいろありました。
しかし、それから年月が過ぎておりました。

皆さんは、「エントロピー現象」っていう言葉を
聞いたことありますか?
entropy (エントロピー)

エントロピー現象 っていうのはですね、
ここに、100℃ のお湯があるとしますね・・
それを、今ここの気温が大体22〜23℃位でしょうか?

ここの所に置きますと、100℃が、22〜23℃まで下がって
いくっていうですね、そういったことを・・
要するに、高エネルギーのものは、低エネルギーへと変化し
ていくっていう そういった現象。
これを、エントロピー現象と言います。

実に、このエントロピー現象というのは、私達の霊の世界
にも起こるんじゃないでしょうか?
ペンテコステの時に、もの凄く 燃えました。
そして、迫害にも関わらず、ドンドンドンドン と、宣教
していきました。
あちらこちらに、迫害の中ですけれども、教会が作られて
いきました。 多くのクリスチャンたちが出てきました。

確かにその勢いが凄かったからかもしれませんし、
ローマ帝国の力が強かったかもしれませんけれども、
迫害が起こっていきました。
ペテロが、パウロが、殉教していきました。
特に、AD.64〜65年は激しかったんですね。
そして、それにも関わらず、福音はず〜っと伝えられて
いきましたけれども、

もし、このヨハネが捉えられて、島流しされて帰ってくる。
これが、20年だとか・・(分からないですけれども)
したとしましょう。
そして、ヨハネが帰ってきて、そして、エペソの近くの
教会に居たか? どこに居たか?
そこら辺に居たと言われております。

現実の教会の姿を見た時に、彼はある面においては、
これは大変なことになるって分かったんじゃないでしょうか?
彼自身は、迫害の中からふっと取り去られて、彼の心の中
には、なおその燃えるものがずっとあった。

でも、帰ってみたら、なんか冷めている。
エントロピー現象というんでしょうか?
そのようなものを、
彼は感じたんではなかろうかと思います。
そして、彼はもう一度、福音の中心・・
福音の中心は何か? それは、イエス・キリストである。
そして、イエス・キリストの中心は何か?っていうですね、
イエス様の内側をもっともっと深く私達に教えたいと思っ
たのではないでしょうか?

それが、1章:1節に・・
「はじめからあったもの」のこの「はじめ」っていう
言葉は・・
「これから第20回運動会を始めます」の「はじめ」
とは違って、「アルケー」 っていう言葉だそうです。
「物事の全てのはじめ」っていうことです。

ですから・・
「初めに言葉があった。言葉は神であった」っていうのは、
「何もない時に一番のはじめから」って、そういった
意味になります。

私達が、聞いたもの、目で見たものを、よく見て手で
触れたものを伝えます。
聞いたもの。目で見、そして、触れたもの。これは何を
言ってるんでしょうか?
もちろん、イエス様ご自身です。
ヨハネは、イエス様ご自身と触れて目で見て、そして、
過ごしましたね。

そうすると、私達の信仰において大事なことは何だろうか?
それは、原体験を持つ っていうことじゃないでしょうか?
原体験。
個人的な神様との 直接的な交わりの体験。
原体験。これが、まず必要です。

でも、原体験を持った人は、次に証っていう形で、みんなに
伝えていきます。これも、とても貴重なものだと思います。
しかし、これは自分で体験した・・っていうよりも、あの人が
体験したっていう「証」っていうのは、そういったものに
ちょっと変化していきますね。
もちろん、証から 自分の体験に進む・・っていうことは、
もちろん必要なことです。

次に、今度は証から、今度は、「知恵と知識」「理解」と
いう方に移っていく。
これは、記録された事実。
「あっ、あの人がこうした」
「ペテロがこうして、ヨハネがこうしたんだよ」
っていうですね・・この事実、記録。
ようするに、原体験が、証になって、知識や理解になって
いく。

これ、私達の信仰生活にもあるんじゃないでしょうか。
自分自身の直接的な神様との出会いの体験。
どうでしょうか? 皆さん。
あの時、この時・・って数えることができるでしょうか。

何も、大きな出来事じゃなくていいですよ。
そのときの、本当に自分が心から、
「あ、これはイエス様だ!」と思ったりしたこと。
そういったことのですね、小さな体験だと、また忘れて
しまいますけれども。
いくつか、そういった様なモノは、やっぱり、とても
私達にとって大切なことです。

そして、また証を聞くことによって、
「ああこういった形でイエス様と出会えるのか!」

さらに、自分自身の理解を超えた いろんな人たちの知識
そういったものを通して・・
「あっ、これが神様か!」って言って、また自分の、
原体験に繋がっていく。

これらのこと。
これは、どれもどれも繋がってて大切なことです。

 §

「キリスト教」これは、神と弟子との直接的な交わりの
体験から出発しました。
神が人となり、それは、本当に出会ったんです。
一緒に食事をしたんです。
一緒に苦しい思いをしたんですね。
そこから、始まりました。

ですから、ルカによる福音書 1章:1〜2節 に

(ルカによる福音書 1章:1〜2節)
わたしたちの間で実現した事柄について、
最初から目撃して御言葉のために働いた人々が
わたしたちに伝えたとおりに・・

ルカもこのように、言っております。
また、ヨハネによる福音書 1章:4節 で、
「言葉は肉体となって私達の間に宿られた」

そして、弟子達もいっぱいいましたね?
例えば、イエス様が、復活してからも、実は、そう
いった原体験はいっぱい続いてきました。
トマスが、どうしても信じられなかったんですね。
そしたら、イエス様は、トマスのとこに現われて
信じられないんだったら、指を首の釘の跡にさし
なさい。脇腹に指を突っ込みなさいって言いました。

そのようにして、イエス様は自分自身をですね
トマスに現していきました。

事実。これ、本当に理想でも知識でも、誰かの体験
を超えて、一人一人の事実的な体験。
これが、原体験で、これが実はキリスト教において
本当に重要なことです。

これがなくて、クリスチャンになって行ったらどう
なりますか?
これは、国教会主義でありますね。
生まれたら、そこの人はクリスチャンって形。
世界に、これが蔓延ってしまって、大変な問題を起こ
しておりますし、未だにそうであります。
敵の国に攻めて、人をどんどん殺しても、十字を切っ
てですね・・
「自分は神様の子どもである」ってことを証してる
テレビなんかを見る時、何か腹立たしくなってしまいます。

ペンテコステ・宣教・迫害・リバイバル、
今日、多くのグループ・・それぞれ特徴を持っている
でしょう。

その中で、中心テーマは、
個人的に、主イエス・キリストと、どのように出会って
今どのような関係を持っているか?っていうこと。

ここに、入ってこなければなりません。
それは、知識を越え、他人の体験を超えて、
「自分の体験」となっていかなければなりません。

私が最初のその体験したのは、19歳の時でした。
先生のところに招かれて、そして、
「君は何に憧れているか?」と聞かれました。
その先生は、そこから聖書を出してきて、
「私は、イエス・キリストに憧れている」と言った。
その後は、何も覚えてないんですけれども。
その帰りに、涙が出たこと。それはある面で、
私としては イエス・キリストを何も理解していない
んですよ。
理解していないけれども、ある面では、原体験の
始まりだったような気がいたします。

ヨハネは、ペンテコステの体験を持っております。
迫害の中で神様のみわざをいっぱい見ておりました。
しかし、イエス様と3年過ごしましたけれども、彼は
パトモス島に流されていってしまいました。
解放されて戻ってきました。
教会は、少なからず変化してしまっていた姿を彼は
見なければなりませんでした。

ですから、黙示録では、このように言っております。
黙示録 2章:4節 です。

(黙示録 2章:4節)
しかし、あなたに言うべきことがある。
あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

って言いました。

要するに、原体験から離れてしまった。
だから、どこから落ちたか思い出しなさい・・って
言いました。
原体験に戻りなさい。
そこを、思い出してね、そこに戻るんだよ。
・・と言ってくれました。

これは、今でも、
私達に語っているんじゃないでしょうか?
エペソの教会へ。この教会こそ、当時の初代教会で
中心となる教会でしたけれども、

そこに戻ってみたときに、
長老達・・あれだけの知識があったのに、
どうして、こんなに変わってしまったんだろうか?

っていうことが、
ヨハネの目に飛び込んできたんではないでしょうか?

「最初の愛」と言いました。
これ、勿論、原体験ですけれども、
人間同士でも、これはやはり一番大事なものは何だろうか?

これは、原体験。
ま、言葉は変ですけれども。要するに、この人との
本当に愛の交わり。人格と人格の交わり。
これこそ、やはり、人間同士でおいても一番大切なことに
なります。

外側に、貧しさや 欠けや 病や 能力など、これが欠けた
としても、私達の人生で、誰かと命と命との交わりを
持てる ってこと。
これは、最も大事。
そして、この命の交わりを持てたら、様々の欠け、貧しさ、
いろんな事は、乗り越えられる。ということが分かります。

さて、手紙を書いた目的。原体験に戻るようにっていう
ヨハネです。そして、彼は、もう一度イエス・キリストの
内側っていうんでしょうか・・ま、これ私の表現ですけれ
ども・・
みんなにこの表わさなきゃならないと思って、この手紙を
書き始めたんだろうと、私は思います。

確かに彼が帰ってきた100年頃、
キリスト教会はどうなってたか?っていうと。
グノーシスが、蔓延っていたんです。
「グノーシス」っていうのは、霊肉二元論ですね。
分けるんです。

ですから、「イエス・キリストは霊の存在だから、
イエス・キリストは肉体を持ってくるはずはない」とですね、
極端に言うと、こういう風になってしまうんですね。
そして、私達が肉で罪を犯しても、これはしょうがない
んだと・・肉だから。
でも、私達は霊において神様を信じているから大丈夫
・・って言ってですね
自分の罪をも正当化することができるような。
グノーシス・・霊肉二元論。

そして、肉っていうのは悪だって言うんですね。
だから、私達がすることは、みんな悪なので、しょうが
ないんだ。罪を犯すのは、しょうがないんだ。
・・って言います。

でも、聖書では「肉は悪だ」と言ってませんね。
肉は中立なんです。中立。
要するに、私達の人格・存在は、神を選ぶこともできるし、
神様を否定することもできるんですね。
それは、私達個人の、まさに肉っていうものの
極めつけは「人格」です。

神様は私達を、
土のチリで造って、命の息を吹き込みました。
土の塵。そこの部分は肉であるけれども、肉の一番の中心
は「人格」って言うことができます。

このようなグノーシスっていうのも出てきた。
その中に、ヨハネは帰ってきたのかもしれません。
ヨハネは霊的エントロピー。加工。
食い止めようとしております。
初代教会の命。
あれを取り戻さなければならないと、彼は考えている
からだと思います。

現代のアメリカの教会・ヨーロッパの教会、
本当に人間中心主義になりましたね。
世界全体が、その中にあります。
ですから、私達はその中に流されては決してなりません。
平和な時・・むしろ、
霊的な熱っていうものが 下がっていってしまって、
そして、この世が基準になってしまうということ・・
いつでも起こってきます

しかし、命の法則は、反エントロピーなんです。
反エントロピー。
唯一、熱も下がっていく。このエネルギも失われていく。
しかし、神様が人間に与えた命・・これは、反エントロピー
で、それらに満足できないで、むしろ逆に、上に上って
いく。上に登っていこうとします。

神様にもっと近づこう。
もっと命を! っていう風にして求めていく。
これは、人間に与えられた 反エントロピー精神と言っても
いいですね。
神を求める心です。

命の法則。反エントロピー。
私達は、「進化論」っていうものに洗脳されております。
本当に、日本において一番の大きな偶像は、進化論という
ことができますけれども、しかし、命はより高次元のもの
を求めていくんです。
神の介入があるからこそ、
私達はそうなることができます。

神との、命の体験と交わり。
これが失われるすると、人はそれを自分で作り出そうと
します。でも、これを作り出そうとすればする程、
むしろ、自分が神としてなっていかなければなりません。

もっともっと、大きな罪の中に入っていきます。

今、開いている所(ヨハネの手紙)の 1章:4節 に、
「わたしたちがこれらのことを書くのは、
わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」
・・と、言いました。

本当の命と命の交わり。継がり。
体験・・原体験には、命が湧き上がるっていうんです。

もし、私達が、命が湧き上がらないとするならば、神との
交わりと命を失っているから・・ということになりますね。

新しい命を、私達はいつでも持つことができます。
人間と動物は違います。
動物は、本能と生殖機能によって生きている・・と言って
もいいでしょうね。

でも、人間はそうでは決してありません。
人間が求めているのは愛であり、命です。
「交わり」と「継がり」です。
しかし、人と人との継がりと交わりには限界があります。
それを、自分で何とか作ろうとして行く時に、むしろ、
相手を責め、あるいは離婚になっていきますし、
また、親子でも断絶していきますし、人を殺し合うと
いうことに繋がっていってしまいます。

命は命によってのみ、作り出されます。
その命とは・・・1章:2節に
(ヨハネの手紙一 1章:2節)

この命は現れました。御父と共にあったが、
わたしたちに現れたこの永遠の命を、
わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

ですから、命は命によって作られる。
しかし、人間と人間の命は もう堕落してしまって
いるんですね。
そこから、新しい命を作るってことは不可能です。

もし、できるとするならば、本当に聖なる完全なる命と、
私の命が今なお不完全であって罪の中にあったとしても、
その命との交わりによって、私達の命は聖められて、
まことの天に通じる命を持つことができるようになっ
てきます。

ヨハネによる福音書 14章:6節 に、
では、その命は・・ま、ここでも書いてありますけれども。

(ヨハネによる福音書 14章:6節)
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない。」

そうです!
イエス様こそ、私達を真理の命に導く道。
「いのち」その方です。

先ほどの、1章:2節 でも、この命は現れました。

ヨハネの手紙一 1章:2節ですけれども、
「この命は現れました。御父と共にあったが、
わたしたちに現れたこの永遠の命」

これを私達は見て、そして、この方と交わりを持つ
ことができるのです。とヨハネは勧めました。

真の神様は「いのち」なるお方です。
永遠の命とは何か?
それを、もうちょっと聖書は具体的に「神は愛なり」
と言いました。
永遠の命をお持ちなのは神様です。
その神様はどのような形かというならば、愛なる方だ
と言いました

ヨハネの手紙一 4章:8節 でこう言ってますね。
命(神)は愛である。

そして、この愛。
これは、人間のエロスの愛とは違います。
人間の愛は、誰かを愛するのは自分のためです。
いつでも自分のためです。
ですから、自分のためにならない時には、愛することは
もう出来なくなっていってしまいます。

そして、神様の愛は エロース ではありません。
「アガペー」です。
アガペーっていうのは、相手のために自分自身を失う
愛です。

神様は お一人 ではありません。「父と、御子と、聖霊」
一人だったら愛は成り立ちません。愛はないのです。
でも、聖書は「父と、御子と、聖霊」と、明確に書いて
ますね。

そして、互いに仕え合っています。
父は、御子イエス・キリストに対して、人々に対して、
「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言いましたね?

そして、イエス様は今度、聖霊に対して、私をなじったり、
そういったような者は許される。
でも、「聖霊を汚す者は許さない」って言いましたね。

聖霊に対して権威を与えました。
聖霊は自分自身を表わしません。
いつでも、イエス・キリストを現します。

そして、イエス・キリストは、
「全てよいものは父だ!」
って言って、父なる神様を現していきます。

ここに「三位一体」これがアガペー。神は愛。
愛は、「父と御子と聖霊」っていうことになります。
これを、「三位一体の神」っていう表現を使うわけです
けれども。

 §

さて、この命はどこにあるのか?
つながりと交わりの中にあると言いました。


  書籍「甦った人 -ある死刑囚の証したこと」
  (編者:畑野寿子/出版:聖公会出版)
  ISBN:978-4-88274-182-4

っていう本を読んで、私は本当に感動してですね、
何度か読みながら、涙を流したんですけれども。
ちょっと紹介。簡単に紹介しましょう。

久田徳造さんっていう人の事を書いてるんです。
そして、「ある死刑囚の証したこと」と言って、
畑野寿子さん っていうんでしょうか?
(名前の読み方わからないんですけれど)
その方がですね、関わりを持って、そして、
手紙のやり取りをして・・

そして、そこからその手紙をまとめたり、また、
その人が久田さんがいろんな人に出した手紙を集めて、
一つの一冊の本にしてくださいました。

彼は、尼崎市に生まれまして、小学校二年までしか
学校に行ってないんですね。
幼い時に、母に捨てられます。
福祉施設をたらい回しにされたり、そして、養父母の
元にも預けられますけれども、そこでも、満足には
生きることはできなかったんじゃないでしょうか。

戦後、間もない頃より、悪の道へ走ります。
少年院を出たり入ったり。
ですから、十代で、もうドンドンドンドン悪の道に
入っていったんですね。
大きな罪を犯していきます。

多分、死刑囚ですから、殺人とか、そこまで行ったん
だと思いますね。
それは、まだ書いてはおりません。

29歳の時に、死刑判決を受けます。
そして、刑務所生活をする。
この一年間は、半狂乱的に過ごした・・とも、
書いてありました。

その中で、救いが伝わっていきました。
その伝える一つのきっかけが、畑野さんっていう方
だったんだと思います。

その後、信仰を持ち、生きた信仰を与えられ、到底
起こり得ないことが、彼の中で起こり始めます。
古い彼は葬り去られ、新しい久田徳造として生き
始めていくんです。

そして、彼が手紙をいろいろ書きました。
その手紙がですね・・本当に、
「えっ?こんなに人間って変えられるものなの?」って、
言わざるを得ないような手紙です。

そして、彼は35歳の時の 6月2日 が、死刑の日に
なりました。
そして、6月1日の夜から、彼には不安は何もあり
ませんでした。その晩、一晩、朝までですね、
手紙を書きました。

自分がお世話になった人達に対して、そして、
「畑野寿子さんに」ってことにも書いてあるので、
これをお読みいたします。

==書籍より引用して朗読==
主の御名を賛美します。
「わたしに聞き従うものは安らかに住まい、
災に遭う恐れもなく安全である。」
御言葉、箴言 1章:33節 を引用しております。

先生、おはようございます。
お元気でいらっしゃいますか?
いつもお祈りくださいまして、ありがとうございます。
一昨日、関はるこ先生に希望の本を添えて、
お礼状差し上げたところでした。
加藤のお姉さんには、お手紙は差し上げられません
でしたが、先生から何卒よろしく申しておいてください。

いよいよ、今日あと数時間で、主のもとに行かせて
いただくことになりました。
今、僕はこの愛のひとときを心から味わっています。
あの恐ろしくて恐ろしくてならなかった死刑が、
魂の底から恵みに変えられてきます。

主を全く信じ、その確信を心から持つことが
できました。
執行を目の前にしました 僕は、魂の底から安らかに
住まわせていただいております。
何の不安も恐れもなく、ただ主を信頼し、
その御約束に、すべてお任せすることができています。

先生、短い間ではございましたが、いろいろご指導
くださいまして、本当にありがとうございました。
どんなに、僕たちを励ましていただいたことでしょう。

先生にお伝えしていただくことを、池村先生に
お願い申してございますので、今日は最後の筆を
持って、心からの感謝の言葉を申し上げて失礼します。

どうぞ、ご主人様に、何卒、よろしくお伝え
いただけますようにお願い申します。
そして、小池司教様へ先生から呉々もよろしく
お伝えくださいませ。
関はるこ先生も、よろしくお伝えください。

昨日から、手紙の書きっぱなしで、一睡もしていません。
もう、2〜3通書きまして、入浴に行かせていただき、
主のもとに参ります。

まだまだ、書きたいことは沢山ございますが、
この辺で、失礼させていただきます。

お体あまり良くございませんご様子、呉々も
ご自愛くださいますように、お祈りします。
==引用朗読おわり==

彼は、小学校2年生までしか行ってないのですが、
見事な、こう言った字を書くんですね。
この様にして、本当に彼は、神様のもとに作り
変えられた姿を見ます。

これは、彼が原体験・・要するに牢獄の中です
けれども、イエス・キリストを直接 得た体験を、
いくつもいくつも、いつもいつも持ち続けた
彼の姿を私達は見ます。

この姿を見て読みながらですね、そこまでとっても
行ってないな。なんかあったら、逃げちゃうだろうな?
誰かに文句言ってしまうだろうな。。
ってですね、このように考えてしまいます。

でも、私達も神様は導いてくださって、完成して
くださいます。

「初めに言葉があった。
言葉は、神と共にあった。
言葉は神であった」

そして、その言葉なる イエス様 は、私達の所に
来てくださいました。
誰でも、誰でも!
このイエス様と、人格と人格の交わり。
直接の原体験。これを持つことは、誰でもできるんです。

どうぞ、さらに私達は、
今までも経験してきました。
けれども、でも、さらに、
イエス様との直接的な交わりを持つことを
願って祈り、
また、聖書を読み、互いに分かちあって、
祈り合いましょう。

 §

アーメン!
お祈りします。

天の神様、この時をありがとうございました。
ヨハネの第一の手紙に入りました。

イエス様がどのような方であるかを、
さらに、私達のイエス様の内側を、
私達に見せてください。
そして、見せてくださるだけじゃなくて、
私達がこの方と一つになることが出来ることを、
教えようとして下さっている
この手紙を感謝いたします。

どうぞ、主よ、知識を超えた、また、誰かの
経験を越えた、自分自身とイエス様との、
豊かな直接的な交わりを持たせてください。

イエス・キリストの お名前を通して、
お祈りいたします。
アーメン!