8月16日 49
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
汽撻肇蹌仮15節
善をもって愚か者の口を塞ぐことなどできるのでしょうか。むしろ、厳しい教えと罰則をもって悪人の発言を封じるべきではないだろうか、と思いますが?
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく…」とある「栄光」は、「命・愛」の言葉に置き換えられます。人は、神の栄光を得られないので世に求めます。しかし、世も自分の栄光を求めるだけなので、自分の栄光を自分で作らねばなりません。
そこで造り出す栄光(命・愛)は、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、ねたみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、泥酔、酒宴」などです。自分から出てくるものは肉の業だからです。
神の「善(カロス)」は、聖霊によってつくられます。そのすべては愛です。霊の結ぶ実は「愛(喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)」です。「善」なる良き業は、神によらねば作れません。
「父、母、妻、子…捨てねば」の主の言葉は極論に聞こえますが、「捨てる」とは愛する順番を主イエスの下にする(捨てる)ことを指します。すると、聖霊は喜んでその人に仕え、以前よりも「父・母・妻…」を愛する御霊の実を結ばせてくださいます。
友よ。信仰の戦いは、最初に神を愛する戦いです。その勝利(神に負ける)によって善が生まれます。
8月17日 50
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
汽撻肇蹌仮16節
ある国の国旗は、青(自由)白(平等)赤(友愛)の三色ですが、それら三つはどこにあるでしょうか。
三つの中でとりわけ「自由」は最も大切と言えますが、何でもできる自由ではありません。自由の基準は、エデンの園の中央に置かれていました。園の中央は霊的世界を示し、「命の木」は「主イエス」を、「善悪の木」は「戒め」を表わしました。
善悪の木は、神が人に人格(主体的自由)を与えたゆえに置かれました。戒めは、神に継がり命を得る道と、神から離れ死に至る道を明確に教えていました。
また、「戒め・真理」を握る者が神ですが、アダムとエバはこの木の実(善悪・真理)を取って食べ、自分を神とする罪を犯しました。戒め・真理は、神に握られているからこそ真理となり命の道となります。
それは、神の戒めに従うこと、すなわち神に自分を支配していただくことで、ここに人の自由があります。
人の自由は。神への服従にあります。神を神とせずに人間中心主義の考えと行動は不自由を作り出します。
友よ。自由な人とは、「神に支配された主の奴隷のことです。冒頭の「自由な人の生活」とは、それは、「聖霊に満たされた人」(エフェ5章18節)であり、「聖霊の導きに従う人」(ガラ5章16節)のことです。
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
汽撻肇蹌仮15節
善をもって愚か者の口を塞ぐことなどできるのでしょうか。むしろ、厳しい教えと罰則をもって悪人の発言を封じるべきではないだろうか、と思いますが?
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく…」とある「栄光」は、「命・愛」の言葉に置き換えられます。人は、神の栄光を得られないので世に求めます。しかし、世も自分の栄光を求めるだけなので、自分の栄光を自分で作らねばなりません。
そこで造り出す栄光(命・愛)は、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、ねたみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、泥酔、酒宴」などです。自分から出てくるものは肉の業だからです。
神の「善(カロス)」は、聖霊によってつくられます。そのすべては愛です。霊の結ぶ実は「愛(喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)」です。「善」なる良き業は、神によらねば作れません。
「父、母、妻、子…捨てねば」の主の言葉は極論に聞こえますが、「捨てる」とは愛する順番を主イエスの下にする(捨てる)ことを指します。すると、聖霊は喜んでその人に仕え、以前よりも「父・母・妻…」を愛する御霊の実を結ばせてくださいます。
友よ。信仰の戦いは、最初に神を愛する戦いです。その勝利(神に負ける)によって善が生まれます。
8月17日 50
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
汽撻肇蹌仮16節
ある国の国旗は、青(自由)白(平等)赤(友愛)の三色ですが、それら三つはどこにあるでしょうか。
三つの中でとりわけ「自由」は最も大切と言えますが、何でもできる自由ではありません。自由の基準は、エデンの園の中央に置かれていました。園の中央は霊的世界を示し、「命の木」は「主イエス」を、「善悪の木」は「戒め」を表わしました。
善悪の木は、神が人に人格(主体的自由)を与えたゆえに置かれました。戒めは、神に継がり命を得る道と、神から離れ死に至る道を明確に教えていました。
また、「戒め・真理」を握る者が神ですが、アダムとエバはこの木の実(善悪・真理)を取って食べ、自分を神とする罪を犯しました。戒め・真理は、神に握られているからこそ真理となり命の道となります。
それは、神の戒めに従うこと、すなわち神に自分を支配していただくことで、ここに人の自由があります。
人の自由は。神への服従にあります。神を神とせずに人間中心主義の考えと行動は不自由を作り出します。
友よ。自由な人とは、「神に支配された主の奴隷のことです。冒頭の「自由な人の生活」とは、それは、「聖霊に満たされた人」(エフェ5章18節)であり、「聖霊の導きに従う人」(ガラ5章16節)のことです。