悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。
 
ルカ福音書3章8節
 
 バプテスマのヨハネの言葉は、実に厳しく身を引き締めます。それは、ラクダの毛衣、皮の帯、いなごと野蜜を食べる荒くれ男だからでしょうか。否、神の愛の迫りからです。
 
 旧約聖書は律法で厳しく、新約聖書は愛で優しいと思われがちですが、「モーセは、私について書いている」(ヨハ5章46節)と主が言われたように、新旧一貫して愛を語ります。愛から出てくる厳しさは、「自己責任」というものです。愛は、「私とあなた」であり、そこに何も挟めません。それは、「神と私」であり、最終的には家族も、牧師も、教会も、教団も入れません。ですから、信仰生活は徹底的に自己責任であることを自覚せねばなりません。ユダヤ人たちが、「我々の父はアブラハムだ」と叫んでも、「神と自分」の間に真実な「継がり」と「交わり」がなければ、騒がしいシンバルになります。
 
 友よ。愛の厳しさは、真実ないのちを失わせないためです。自分の信仰に、アブラハム(牧師、教会、兄弟姉妹…)を持ち出さず、自分自身を主の前に持ち出してください。「主は羊飼い、…主は私を青草の原に休ませ…魂を生き返らせてくださる」(詩23)。