兄たちは)ヨセフの家に連れて行かれ…恐れた。「…われわれを…捕らえるためなのだ。」と彼らは言った。
 
創世記4318
 
スパイ呼ばわりされていた者が、宰相の家に招かれるなどは前代未聞です。良いことなのか、その反対か、考えれば考えるほど不可解で恐れが出てきます。彼らの恐れは、あまりにも大きなヨセフの歓待にありました。
 
ザカリヤは天使の声に「恐怖に襲われ」(ルカ1章12節)、マリアも「恐れることはない」(30節)と諭されるほど恐れました。パウロもダマスコ途上で主の光に打たれ、恐れました(使徒9章3~)。彼らの恐れは、いずれも本当は「主の絶大な歓待」だったのです。聖書に登場する多くの人が、神の歓待が大き過ぎるために恐れました。兄たちも、歓待している方がヨセフであり、彼の愛であることを知るならば、恐れる必要はありませんでした。
 
恐れには、神から来る「聖なる畏れ」と、罪やサタンから出る「不安の恐れ」があります。現象は同じようですが、「聖なる畏れ」は人を神にしがみつかせますが、そうでない恐れは神以外のものに助けを求めさせます。友よ。「聖なる畏れ」は日々持つことができます。それは、御言葉に真剣に接する時です。