久しぶりにブルベにエントリーした。栃木県の棚田を見に行くという趣旨の300㎞ブルベは、比較的平坦なコースなので胸椎圧迫骨折からのリハビリにはちょうど良さそうだ。ワイフにその旨を告げると「棚田なんてわざわざ見に行くの?」とクールに一言。田舎育ちの彼女にとって、棚田はそんなに珍しいものではないらしい。さらに、スタート地点まで車を利用することから「何かあっても迎えに行けないよ」と言い渡されてしまう。確かに仰る通り、300kmともなると途中でリタイアした場合は帰ってくるだけでも大変なので、再び落車事故など起こさぬよう細心の注意を払わなければならない。

 ちなみに現在の愛車ピナレロ・プリンスは、長距離走行に適したエンデュランスモデルではなく明確にスピードを指向したレーシング寄りのモデルなので、数百キロを走るロングライドに向いているとは言い難い。これまで最長で180㎞は走ったが、300㎞となると少し不安が残る。もしかすると400kmブルベを走破した実績のある初代ロードバイクの方が良いのでは、と数日前に久しぶりに初代に乗って平日の夜練で50kmほど走ってみたが、平坦こそ50mmリムハイトカーボンホイールの恩恵もあって意外と良く走るが、登り坂になると絶望的に進まない。ピナレロではシッティングで軽く登れる坂でも、所々ダンシングを入れないと脚力がもたない。あらためて乗り比べてみると両車の圧倒的な性能差はいかんともし難く、やはりピナレロで出撃するしかないと覚悟を決め、ライトやバッグ類を増設してブルベ仕様に仕立て上げた。

 問題はスタート時間だ。集合場所がいつもの等々力アリーナではなく我が家から70kmも離れた江戸川の河川敷で、しかも午前5時スタートという狂った時間設定なので3時過ぎには自宅を出る必要がある。明らかに無理のあるスケジュールだが、昨夜のうちに万全の準備を済ませて多めにお酒を飲んで22時半に無理やり就寝。午前3時ちょうど、目覚まし時計で首尾よく起床することができた。登山や自転車など、遊びに行くときはどんなに疲れていても絶対に寝坊しないから不思議だ。嫌な予感がしたので、今や生活サイクルが完全に崩壊して日々不規則な生活を送る娘の部屋を覗くと、案の定ベッドでスマホをいじっていて思わず脱力する。嘆息しつつ準備を済ませ、3時15分に自宅を出る。さすがにこの時間は東名高速、首都高ともにガラガラで走りやすい。職場近くのビル街を走る首都高都心環状線は、週に3回はプレイするPS5「グランツーリスモ7」に登場するコースに酷似しているので、ゲーム画面と混同してついアクセルを余計に踏んでしまいそうになる。集合場所近くには予定通り4時15分ごろに到着。コンビニで朝食を調達し、コインパーキングに駐車してから慌ただしく平らげた後、準備を済ませて数百メートルほど先の集合場所へ。間もなく夜明けを迎えんとする河川敷の広場には、すでに結構な数のロードバイクが集結している。ざっと見たところ、やはり年齢層は相当高いようだ。世の中の大半の人はご存じないであろうこのブルベというイベント、久しぶりに参加してみるとやはり何とも不思議な雰囲気である。

  徐々に東の空が明るくなってくる中、やがてスタッフの方がやってきて車検が始まった。40名を超える参加者で少し時間はかかるが、無事に装備品のチェックが終了し、スタート登録も済ませて5時少し前に満を持して出発。最初はいつも通りまとまった台数がトレインとなって進む。行徳橋を渡ってすぐに千葉県に入り、人気の少ない街中を黙々と走る。猛暑になるという予報に反して今のところ気温はそれほど高くないが、湿度が高く早々に汗が滴り落ちる。今回は久しぶりのロングライドということで、お尻の痛み対策として臀部のパッドを長距離に最適化したというサイクリングウェアメーカー・パールイズミ製の1万円強のタイツを奮発して購入してみたが、これがすこぶる調子が良い。足の動きを全く妨げないので、ペダリングに関してまったくストレスがかからない。普段はアマゾンで購入した安物の加圧っぽいタイツを着用しているが、ほんの十数分走っただけで疲労度が雲泥の差であることがはっきりと分かるほどだ。先行きは長いがこれは良い兆候、と気分良くペダルを回す。

 信号でのストップ&ゴーを繰り返しつつ時速30km弱ぐらいの程よいペースでひたすら走り続る。周囲の風景はまったくもって何の変哲もない市街地なので、正直あまり見どころがなく徐々に退屈になってくる。柏、守谷を通過した50km地点あたりの経過時間は2時間20分ほどとペースは悪くない。ブルベでは時速15kmを基準に制限時間が設定されるので、300kmを走る本日は20時間以内のゴールが求められる。ここまでは信号の待ち時間なども含めたグロスで軽く20kmを超えているので、疲労困憊になるであろう後半に向けてこの調子で前半に出来るだけ貯金を増やしたいところだ。そのまま休憩もせず走り続け、71km地点でトレインを離れコンビニでトイレ休憩と水分補給を行う。事前の予報通り、日が高くなるにつれて気温が上昇し、すでに1.2Lほど持参したドリンクを飲み尽くしてしまった。このペースでは果たしてお昼ごろには一体どんな暑さになるのか、先が思いやられる。

 小休止後、出発するとすぐに別のトレインに追いつく。筑西市、真岡市といった54年間の人生で一度も耳にした覚えのない街を駆け抜ける。ブルベでなければ絶対に訪れる機会がなかったと思うと、ちょっと現実感を喪失してしまいそうになる。地方都市らしく信号が少なくて走りやすいが、その分停車して固まった筋肉をほぐす時間がないため徐々に全身に痛みが蓄積していく。途中、休憩する方などが抜けていつの間にか単独走行になった。無理をしてペースを上げないよう注意しつつ、100km地点を通過したのは9時45分ごろ。すでに結構な疲労が蓄積する状況でまだ全行程の3分の1と考えると完走に向けての不安が募らざるを得ないが、残り200kmを15時間と解釈すればかなりのスローペースでも問題ない、と前向きに捉えることにする。10時前、本日最初のPC(チェックポイント)となる105km地点のセブンイレブンに到着。十名ほどのブルベ参加者が休憩する中、少し早いが昼食として幕の内弁当を購入。ドリンクの飲み過ぎで若干胃袋が不調だが、ここで食べておかないとこの先辛くなるので無理をして完食する。さらにエネルギー補給のためゼリー状飲料やアミノバイタルプロ粉末などを追加。ゆっくりと休憩して体力回復を図り、10時半に出発。さらに気温が上昇していく中、ひたすら汗塗れで田園地帯を走る。

 ここからはある程度アップダウンが出てくるので、これまでのようなペースを維持することは出来ないだろう。目指す棚田までは15kmほどだが、緩い斜面を登っていくうちに眠気と疲労が一気に襲いかかってくる。汗をかきすぎているからか、急な坂では早くも足が攣りそうになって小休止を余儀なくされる。インナーローギアで歩くぐらいの速度で登る横を、快足サイクリストたちが颯爽と追い抜いていく。いつまでたっても坂道が苦手だが、こればかりはトレーニングを重ねるしかないし、とにかく今日は暑さと眠気で体が思うように動かない。11時45分、這々の体で次のPCである130km地点の国見峠に到着。

 日陰では先行した参加者が休憩している。さすがにこの暑さには皆相当堪えているようだ。証憑写真の撮影を済ませ、少し下った先の国見の棚田展望台で身体を休める。周辺には多くの棚田が集まるらしいが、実際に見学するためには山道を少し歩く必要があるようで、残念ながらここまで棚田を目にすることはできなかった。展望台からも、彼方にそれらしきものがかすかに見える程度である。

 早くも空腹を覚え、チョコレートようかんや塩分タブレットを食べ、来た道を戻る。やはりどんなに疲れていても下り坂は楽しく快適だ。すれ違う参加者の中には、勾配が10%を超えるあたりでは下車して手で自転車を押しながら登ってくる方も数名いて、苦しいのは自分だけではないと少し励まされる。ダウンヒルで下った先、右側に展望が開けたところでようやく棚田を目にすることが出来た。

 しかしながら、すでに稲刈りを終えた後ということでやや殺風景な眺めとなっている。やはり棚田たるもの、キラキラと輝く水面に周囲の景色が映り込むぐらいでないとその魅力が半減してしまう。それでも、本日のブルベの主たる目的を果たしたことで少しだけ充足感に包まれる。懸念していた気温の方は残念ながら予報通り上がり続け、サイコンの温度表示は軽く35度を超えてしまった。激しい発汗で体力が奪われ、相も変わらぬ眠気と合わせて足は重くなるばかり。事前に主催者が配布する注意事項を記載したキューシートでは、このあたり数十kmはコンビニが存在しない無補給区間になるが、140kmを過ぎたあたりの地元の雑貨店らしき店を発見してたまらずストップ、軽い吐き気を我慢しながら購入したクリームパンを無理やり胃に詰め込む。とにかく眠くて、座ったまま少し眠ろうとするが姿勢が今一つでままならない。やむなく再スタートするが、やはりペダルを漕ぐパワーがまったく出てこない。ツインリンクもてぎ横の長い登り坂で、再び数名の参加者に抜かされる。150km地点は13時半ちょうどに通過。やはりここ数十kmはペースの低下が著しい。暑さと眠気でちょっと見過ごせないぐらい体調が悪化してきたので、数km先の雑貨屋で再び休憩とする。ガリガリ君を食べて身体を冷やし、600mlのデカビタCを一気飲みした後、日陰のベンチに座って10分ほど仮眠する。目が覚めると先程までの疲労が嘘のように回復して、全身からパワーが満ち溢れてくるようだ。結局、ここで30分以上休憩し、再びスタート。まだまだ緩やかな起伏が続きペースは上げられないが、頭がスッキリした分かなり楽に走ることができる。狭い林道などを経てようやく山岳区間を抜け、地形が平坦基調になってようやく一息つく。

 徐々に日が傾くとともに気温は緩やかに下降し、肌にまとわりつく湿気を帯びた空気も少しずつ快適になっていく。そうなると現金なもので、先程までの悲惨な状況から一転してガツガツとペダルを回せるようになる。ただ、残念ながらお尻の痛みがそれなりに酷くなってきたので、こまめに休憩してストレッチを挟みつつ土浦駅を過ぎて17時50分、PCとなる霞ヶ浦ネイチャーセンターに。初めて目にする風車と記念撮影。

 少し空腹だが相変わらず今ひとつ食欲がわかないので、夕食は26kmほど先の次のPCとなるセブンイレブンまで我慢しよう。以前、このルートを走った時は激しい向かい風で時速20kmも出せずに大いに苦労したものだが、本日は風も弱く30kmを超える速度で気分良く走ることが出来る。単調な道を走るうちに徐々に日が暮れ、気がつけばあっという間に漆黒の闇の中での走行になった。地図によるとそれなりに幹線道路っぽいはずだが、街灯も交通量も少なく寂寥とした雰囲気だ。周囲の林からは秋らしい虫の声が大音量で鳴り響き、その音がカーボンホイールの爆音ラチェットの音とシンクロして何とも不思議なサウンドを奏で脳みそが搖さぶられる。途中、前を走る参加者に追いついたので大人しく後ろについて、19時10分最後のPCとなるセブンに到着。サイクルラックも完備したここでは、数名の参加者が思い思いに休憩している。先程までの各PCにおけるある種の緊張感はなく、ひと仕事を終えたような良い意味で弛緩した雰囲気が漂う。一応ゴールまではまだ60kmほど残っているが、ほぼ平坦なので完走に向けてもう大きな問題はないだろう。言葉を交わした一人が「あとはもうウイニングランですね」などと笑顔で言うに至っては、我々参加者全員が完全に距離に対する感覚が壊れていることを痛感させられる。

 相変わらず胃の調子は万全ではないが、無理やり味噌ラーメンを食べドリンクを補給していよいよゴールへ。独り新利根川沿いの真っ暗な道を淡々と進みながら、ふと頭上を見上げると夜空には満点の星が瞬いていた。アルプスの登山口あたりほどではないが、それでも十分見応えのある星空である。ロードバイクでの日帰り遠征とはいえ、あたり一面に田畑が広がるこの一帯はやはり都心からは遠く離れているのだと実感する。35kmほど走って利根川を渡る栄橋を過ぎた先のコンビニで再び休憩。残り25kmほどだが、さすがに疲労が蓄積しまくって身体が重い。最後のブーストとして息子が愛飲するレッドブルを飲んでみる。過去の経験上、こういったエナジードリンクが明確に効果が発揮したと自覚した記憶はないが、プラシーボでも良いのでゴールに向けて少しだけ後押しして欲しい。夜の木下街道は渋滞もなく、最後は相当ペースを落としながらゴール地点となるコンビニには23時過ぎに到着した。証憑用レシート入手のためにホットコーヒーを購入して一息つく。これまで2回走った300kmブルベは何れも17時間台でのゴールであったが、今回は18時間を超えてしまった。コース概要からするともう少し早く走れることができると思ったが、これも暑さと寝不足が主原因と思われるので仕方がないだろう。体力的には完全に限界を超えているが、久しぶりのブルベを無事に完走することができて何よりである。そういえば先日交換したショートクランクが奏功したらしく、これだけ走ったにも関わらず持病の膝がまったく痛まなかったのは朗報だ。今回の結果を踏まえ、年内にさらなる長距離ブルベにチャレンジするかどうかは、ゆっくりと身体を休めた上であらためて検討したい。