通算4度目となる都民の森遠征の帰路、檜原村で落車した。振り返ってみれば色々と思うところはあるが、とりあえず最悪の状況までは至らなかったことは不幸中の幸いとしか言いようがない。富士ヒルトレーニングのため早朝から都民の森に向かい、気持ちの良い青空の下で大汗をかいて何とか数分ほどタイムを短縮。

 前回同様、ソフトクリームとカレーパンを貪り食い、まだ余力があるのでさらなる鍛錬のために一旦下山してから未踏の入山峠でも登ろうと快調にダウンヒルで飛ばす。頭上は雲一つ無い素晴らしい青空で、今思えばこの時点では紛うことなき最高の気分であった。

 コーナーでのオーバースピードに気を付けつつ、程なくしてヒルクライムの起点となる橘橋に。そこから檜原村役場を過ぎた先、特に何の変哲もない緩い下りのストレートだった。時速35km程度で快調に走っていたその時、突如ハンドルがコントロールを失い、猛烈な振動とともに転倒、落車したようだが、正直詳細はあまり覚えていない。気がつけば、足元の側溝の蓋に数滴の血が滴り落ちている。一瞬、何が起きたかわからないが、すぐに落車したのだと悟った。混乱しつつもとりあえず自転車を歩道の上によけて、その場に座り込む。ショックのためか、少し両手が震えている。流血はどこからなのか、身体中あちこち痛むので特定できない。試しに手袋で顔を拭ってみると、見事な鮮血に染まる。ただ、現時点で明確に痛むのは肋骨周りと右手親指あたりなので、外傷は後回しでいいだろう。幸い意識ははっきりしている。ちょうど通りかかったサイクリストが「大丈夫ですか?救急車呼びますか?」と声をかけてくれるが「大丈夫です」と無理やり笑顔で答えると「お大事に」と言いながら走り去っていった。本当に大丈夫かどうかはまったく自信がない。念の為、昨日ネットフリックスで観た「ミッション・インポッシブル/デッドレコニングPART ONE」の役者名を思い出そうとするが、トム・クルーズはともかくヒロインであるイルサ役の女優名がまったく出てこない。ただ、最近は普段の生活でも俳優の名前を思い出せないことが多々あるので、ある意味で正常な状態ともいえそうだ。適当にベンジーとかキトリッジ長官の名前を思い出した時点で、脳に大きな障害は無いであろう判断する。

 一旦落ち着いて、あらためて落車地点に至る路面を振り返り、次に自転車を眺める。「大変なことになってしまった」と思いつつも、頭のどこかで「これぐらいで済んで良かった」と不思議に安堵する気持ちもある。好時魔多し、最近は自転車に夢中で調子に乗りすぎていたことに対する戒めなのだろうか。この顛末をワイフにどのように伝えれば良いのか悩ましいが、もう少し正確に状況を把握してからの方が良いだろう。我に返って自転車の被害を確認してみると、幸いフレームに大きなダメージはなさそうだ。購入したばかりの美しいピナレロ様に万が一のことがあれば、肉体的ダメージ以上にショックが大きく立ち直れそうにないのでホッとする。前後のカーボンホイールには擦り傷が目立つものの、一見して走行には支障は無さそうだ。ただ、よく見るとチェーンは外れ前輪がパンクしている。このパンクが落車の原因か、と疑うが断定はできない。一部が破れている手袋はもう使い物にならないだろう。

 相変わらず頬を生暖かい液体が伝う感触があるので手袋で拭うが、出血が止まる気配はない。恐る恐るスマホのインカメラで確認してみると、目の横がパックリと3cm程切れて血が滲み出している。場合によっては縫合が必要かもしれない。さらに顎を激しく打撲したらしく、激しい内出血により数cmほど膨らんでその部分の輪郭が完全に変わっている。頬あたりですでに固まった流血分なども含めると、顔全体の半分以上が真っ赤に染まった最高にグロい見た目である。絵的なインパクトは相当なものなので、思わず写真撮影をして家族LINEに送りたくなるが、もちろんそんなことをしている場合ではない。興奮状態にあるせいか、この顔面二箇所の外傷については今のところまったく痛みを感じない。嫁入り前の身体でもないので外見に多少の傷跡が残ろうが問題はないし、むしろ他者の視線が自然と傷跡に誘導され相対的に薄毛が目立たなくなるのでは、などと適当な思考が溢れ出す。

 少し気持ちに余裕ができたので立ち上がって腰を伸ばそうとすると、肋骨辺りに激痛が走る。ヒビが入っているのか折れているのか、ちょっと深刻な痛みで残念ながらすぐに治るものではなさそうだ。右手親指付け根も、自由に動くので骨折ということは無かろうが、すでに大きく腫れ始めて相当痛む。満身創痍といっていい状況だが、下半身に関しては奇跡的にノーダメージでまったく不具合は無さそうなのが幸いである。無理は禁物だが、救急車を呼ばなくても済むのではと考え始める。

 ここでようやくワイフに電話をする。今日は午前は娘と買い物、午後から猫と存分に昼寝をすると語っていた彼女の静かな休日に大きな衝撃を与えることになるのは申し訳ないが、仕方がない。すぐに繋がり「自転車で転倒した」というと「大丈夫?怪我は?救急車呼んだ?」とさすがに動揺が大きいので、相当オブラートに包みつつ現状を伝える。生憎本日は輪行袋を持参していないので、冷静に考えればワイフに自家用車で迎えに来てもらうしかない。そのあたり、すぐにワイフも察知して「今どこ?迎えに行くから」というので「JR武蔵五日市駅から数km地点」と答えると、電話の向こうで絶句している。完全に彼女の生活圏外なので、それがどの辺りに位置するのか見当もつかないのだろう。「とりあえず病院を探して診てもらうから」というと「じゃ、保険証とか持ってそっちに向かうね」と頼もしい一言。心サルコイドーシスが発覚したときもそうだったが、こうした緊急時には意外と肝が座っていて感心させられる。

 何れにしても、まずは自転車をなんとかしなければならない。チェーンはすぐに復旧し、リアディレイラーにも見たところ顕著なダメージは無さそうである。残るはパンク修理だ。これまでホイール交換などの際にタイヤの付け外しは経験しているが、パンク修理となるとこれが始めてである。まずは自転車を天地逆にしてホイールを外す必要があるが、肋骨と親指の激しい痛みでこんな簡単な作業すらままならない。それでも、痛みに堪えながらタイヤレバーを駆使してチューブを交換し、CO2ボンベでエアを注入する。痛みのせいでバルブを抑える力が足りず、エアーが漏れてボンベ一本では十分に入り切らない。スペアの1本分を追加して、ようやく程々にタイヤが膨らんだ。

 散乱した道具を片付け、心を落ち着けるため持参した行動食「ブラックサンダー」を食べてみるが、折からの陽気でチョコが溶けまくっていて全然美味しくない。何とか走行が可能になった自転車を前に、現状を総括してみる。今のところ最も懸念されるのは肋骨の損傷であり、とにかく少し動いただけでも結構な痛みで顔がゆがむ。仮に骨に異常があるとすれば、早めに処置をしなければならない。スマホで近所の外科医院を検索してみると、5kmほど先の小さなクリニックがギリギリ営業時間中らしい。たかが5kmされど5km。普段なら容易い距離だが、果たして今の状態で走ることができるのか。緊張しながら自転車にまたがり、ハンドルを握る。すると、意外やロードバイク乗車時の極端な前傾姿勢がちょうど肋骨の痛みがかなりもっとも緩和される角度になって、下手に直立しているより余程心地よい。試しにペダルを漕いでみると、ギアチェンジもスムーズで幸い駆動系には大きなダメージは無さそうだ。これは医師の診断次第では自走で帰宅することもできるのでは、などと一瞬妄想するが、もちろん残り40kmほどという距離と痛む全身を考えると現実的ではないだろう。

 たどり着いた目当ての病院は、ちょうど診察時間が終了したとのことで残念ながら丁重に断られる。ただ、こちらのあまりの惨状を見かねた看護師さんが顔面二箇所の外傷に絆創膏を貼ってくれた。弱っている時はつくづく他者の優しさが身に沁みる。「救急医療体制が充実している某医療センターに電話してみては」というアドバイスに従って早速連絡してみると「整形外科の担当が不在なので不可」とのこと。これが我が国医療の闇として名高いたらい回しか、などと感心している場合ではない。やはり救急車を呼ぶべきであったのか。あまりの先行き不透明ぶりにさすがに心が折れそうになるが、看護師さんが次善の策としてすぐ近くの某クリニックを紹介してくれたので、一縷の望みを託して移動する。さすがに疲労と混乱でフラフラになりつつそのクリニックに入ると、こちらの異様な風体を見た看護師さんが飛んでくる。「今から診てもらえますか」と言うと大丈夫とのこと。安堵のあまり一気に力が抜け、待合室の椅子に腰を掛ける。肋骨の痛みは一向に良くならず、俯いた状態で上半身を起こすことができない。相変わらず右手親指もひどく痛むが、字を書くには支障はないので看護師の指示に沿って問診票に必要事項を記入していく。いつも服用している薬について「心臓に難病を抱えているのでステロイド飲んでます」というと、ギョッとした表情を見せる。確かに、全身ピチピチしたロードバイク用ウェアに身を包む血塗れのオッサンの姿に、難病というワードは似つかわしくないにも程があるのは否定できない。

 少し待った後、名前を呼ばれ這うようにして診察室へ。医師はまず顔面の傷をチェックした上で、いずれも縫う必要はないだろうとのこと。さらに胸部、右手のレントゲンを撮影。画像によると、骨折もヒビもなく大丈夫と言われてホッとする。それにしては痛みが激し過ぎるように思うが、様子を見るしかないだろう。結局、痛み止めと胃薬、傷口の化膿止めを処方されることになり、診察が終了。ワイフが保険証を持ってくるまで待合室で待機する。大分気分も落ち着いて眠気が襲ってくるが、肋骨痛のせいで姿勢が制限されてうまく眠ることができない。このあと処方されるであろう痛み止め如きでこの激痛が緩和されるのかどうか、甚だ疑問である。悶々としつつ1時間ほど待っているうちに、ようやくワイフが到着した。こちらの酷い姿を見て驚きつつも、テキパキと精算を済ませてくれる。彼女はこういう時、非難や叱責、嫌味、皮肉をまったく言わないのが非常にありがたい。平気な風を装ってもそれなりに落ち込んでいるこちらに配慮して優しく接してくれるワイフには、あらためて感謝するしかない。気を利かせて着替えを持ってきてれたが、全身の痛みで汗と血に塗れたサイクルジャージからTシャツに着替えるのも一苦労である。ワイフに助けてもらいながら自転車を荷台に積み込み、もらったばかりの痛み止めを飲んでようやく帰路に。助手席シートでは、背もたれに体重をかけると激痛が走るため、やむなく前屈みの怪しい姿勢で乗車せざるを得ない。車中、とりあえず事の経緯を仔細に報告するが、肝心の落車前後の記憶が曖昧なので事故原因は後ほど自転車を精査して検討したい。普段の運転はほぼ自宅近辺の買い物のみに限定されるワイフは、往復80kmほどのロングドライブに「こんなに長距離運転したのは初めてかも」と実に緊張感のない感想を述べているのがおかしい。

 帰宅後、とりあえずシャワーを浴びるため服を脱ぐ。鏡に映った自らの姿は予想以上に酷く、事故の傷跡の深刻さを思い知らされる。腫れ上がった顔面もさることながら、肩、鎖骨、胸に結構大きな傷があって我ながら実に痛々しい。患部に刺激を与えないよう慎重に汗を流し、冷えたビールを飲んでようやく人心地ついた。色々と反省点の多い落車であり被害は甚大だが、それでもこうして自宅のリビングでビールを飲めるのは悪くない結果だと思いたい。相変わらず落車前後の詳細な記憶はないので、痛む肋骨を庇いつつ車体や持ち帰った用品類を調べてみた。やはりフレーム自体には事故に起因すると思われる傷やダメージは一切見られない。ワイフは「自らの身を犠牲にしてまで自転車を守ったんだね」と呆れている。前後のカーボンホイールは、左側のみほぼ全周に渡って擦り傷がある。恐らく、歩道の側面に接触したものだろう。こちらも購入して間もないのでショックが大きい。さらに後輪スルーアクスルのボルト、左ペダル、サドルの左側にも擦り傷を発見。転倒した際、この左側3箇所が地面に接触したのだろう。サイクリングシューズを見てみると、何とペダルを固定するクリートというパーツが左足側のみ酷い状態になっていた。

 接合部のイエローの樹脂がほぼ削れてなくなっている。事故後に乗った際には気づかなかったので使用自体は問題なさそうだが、これはパーツ交換するしか無いだろう。恐らく、ハンドルがコントロールを失いブレーキが効かなくなったので、無意識にビンディングペダルから左足を外して地面との摩擦によって減速を試みたのではないか。続いてパンクの原因を特定するために持ち帰ったチューブを調べると、バルブから20cmほどのところに15mm程度の刃物で切ったような傷を発見。タイヤを確認すると、やはり同じ位置に切り口があった。

 ホイール外周の傷が痛々しい。路上の鋭利な物体によってパンクした挙げ句コントロールを失ったのか、あるいは単に不注意で事故現場にあった小さなグレーチングにはまってパンクしたのか、今となっては検証する術はない。やや高価なタイヤだが、残念ながらこちらも交換したほうが良さそうだ。

 何れにしても、一連の自転車のダメージと自らの損傷箇所を照らし合わせても、一体どのように落車したのか皆目見当がつかない。そもそも、顔面や上半身の傷が何によるものかすら不明なのだ。根本的な原因がわからないと再発防止に向けた対策の立てようもないが、ロードバイクに乗り始めて10カ月弱を経てある程度経験を重ねた結果「いつも安全運転を心がけている自分に落車などありえない」と心の何処かに慢心する気持ちがあったのは事実だと思う。残念ながら楽しみにしていた富士ヒルへの参戦は難しそうだが、禍福は糾える縄の如しという言葉もあるので、謙虚な気持ちで反省して怪我の治療に専念すればまた良いこともあるだろう。